立川市は、多摩地区の行政・商業の中心。中央線快速の終着・始発駅であり、伊勢丹・グランデュオ・ららぽーとが共存する商業集積を持つ。
財政力指数は東京都内市部でも上位。米軍立川基地跡地の昭和記念公園と、北側の立飛・新立川エリアの再開発が、街の重心を北に移している。多摩モノレールの起点として、横の動線も担う。
01 · 数字でたどる、いまの立川市
直近の国勢調査で人口は約 18 万 4 千人 (2020 年 183,581 人)。2000 年の 164,709 人からの二十年で、二万人近く増えた。多摩地域の中でも増勢を保ってきた市だ。
ここで見ておきたいのは、子どもの数がほぼ横ばいで保たれている点だ。15 歳未満は 21,854 人 (2000 年) から 21,828 人 (2020 年) へ、二十年でほとんど変わっていない。同じ期間に 65 歳以上の割合は 14.3% から 24.8% へ上がっており、高齢化は進む一方で、子どもの絶対数は維持されているという二つの流れが同時に走っている。住宅地の地価は 1 ㎡あたり 28.4 万円前後にある。財政力指数は 1.16 で、1.0 を超える ── 地方交付税に頼らず自前の税収だけで標準的な歳出を賄える水準で、多摩の市の中でも数少ない。保育の待機児童は 9 人 (前回) から 8 人 (直近) へ、低い水準で横ばいに推移している。多摩の市で珍しく一つの市が交付税に頼らず自前で歳出を賄えるのはなぜか、その答えは、街の中央に居座った飛行場が米軍基地を経て返還された経緯までさかのぼらないと出てこない。
出典: 総務省 国勢調査 / 国土交通省 不動産情報ライブラリ / 総務省 地方財政状況調査 / こども家庭庁 保育所等関連状況取りまとめ
02 · 飛行場・基地・返還跡地 — 数字の背後にある来歴
立川の骨格は、一つの飛行場が時代ごとに持ち主を替えた歴史そのものだ。一九二二 (大正十一) 年、当時の立川村に陸軍の飛行場が開設され、飛行隊が移ってくる。以後この街は飛行機の街として知られ、関連する航空産業が集まった。経済地理でいう「軍事施設を核とした産業集積」 が、この街の一つ目の土台だった。
戦後、立川飛行場は米軍の立川基地となる。広大な飛行場が街の中央に居座り続け、市街地はその周囲に展開した。そして一九七七 (昭和五十二) 年、立川基地は全面返還される。街の中心に、数百ヘクタール規模のまとまった空き地が一度に生まれた ── これがこの街の運命を二度目に決めることになる。
返還された跡地は、用途を分けて計画的に作り替えられていった。滑走路のあった一帯は、自衛隊や警察・消防の施設が集まる立川広域防災基地として整備され、一九九五年に全施設が完成する。駅に近い区画には商業・業務施設のファーレ立川が生まれ、市役所の新庁舎も移った。そして広大な緑地が国営昭和記念公園として開かれた。さらに一九九八年には多摩都市モノレールが開業し、立川は南北の鉄道軸の結節点となる。二〇〇一年の都市づくりのビジョンでは、多摩地域の核都市の一つに位置づけられた。飛行場・基地・返還跡地という一連の来歴が、防災・業務・公園・交通の核という現在の機能へと組み替わっている。
03 · 人が増え、子どもは保たれる街
立川市の特徴は、人口総数が二万人増えるあいだに、子どもの数がほぼ横ばいで保たれている点にある。それは生活インフラの数字に、人口減の地方都市に多い統廃合とも、浦安のような増設とも違う、静かな安定として現れる。市内の小学校は二十一校 (2000 年) から二十校 (2020 年) へ、二十年でわずかに一校減っただけで、ほぼ維持されてきた。子どもの絶対数が大きく動かない街では、学校網も大きくは動かない。
保育の待機児童は 9 人から 8 人へと、低い水準で横ばいに推移している。人口減の地方都市のように「子の絶対数が細った結果」 の低さではなく、子どもの数が保たれる中で、需給をおおむね釣り合わせ続けてきた結果としての低さだと読める。子どもの数が動かず、高齢者の割合だけが二十年で十ポイント上がり、けれど総人口は増え続ける ── 多摩の核都市でこの三つがそろうのは珍しい。総人口が二万人増えたという見出しだけを追うと、その裏で十ポイント進んだ高齢化と、横ばいに踏みとどまった子どもの数という二つの内実が、視界から落ちてしまう。
出典: 文部科学省 学校基本調査 / こども家庭庁 保育所等関連状況取りまとめ / 総務省 国勢調査
04 · 返還跡地に据えられた多摩の核
立川市は、いくつもの固有の機能を抱えている。一つは、基地返還跡地に整備された立川広域防災基地で、首都圏の災害対応を担う拠点として、自衛隊・警察・消防の施設が集まる。もう一つが、駅前のファーレ立川を中心とした商業・業務の集積で、多摩地域の核都市としての顔を支えている。さらに、同じ返還跡地に開かれた国営昭和記念公園が広大な緑地を提供し、多摩都市モノレールが南北の鉄道軸の結節点として街を貫く。
立川は二〇〇一年の都市づくりのビジョンで、多摩の核都市の一つに位置づけられた。飛行機の街から米軍基地へ、さらに防災・業務・公園・交通の核へ ── 「街の中心にまとまった土地がある」 という条件が、時代ごとに違う機能を載せ替えてきた。飛行場も、基地も、返還跡地の諸施設も、もとはといえば同じ広大な平地の上に据えられている。大正の飛行場が戦後は米軍基地となり、返還されると数百ヘクタールの空き地が一度に生まれた。その同じ土地が、時代ごとにまったく違う役目を引き受けてきた。
出典: 立川市 (沿革・地理 概説) / 立川飛行場 (沿革)
05 · Atlas メモ — 返還跡地が支える核都市の数字
立川の数字を並べると、人口増・子ども横ばい・高齢化進行・財政力 1.16 と、増勢と成熟が均衡した指標が並ぶ。決算の数字を職業として読んできた私 (Atlas) に言わせれば、1.0 を超える財政力という現在の数字は、飛行場・基地・返還跡地という来歴が業務と商業の集積へ翻訳された帰結として読める。街の中央にまとまった土地が一度に生まれ、それが計画的に防災・業務・公園へ配分されたからこそ、駅前に集積が生まれ、自前の税収で街を賄える形になった。高い財政力も、維持された学校網も、別々の長所ではなく、一つの返還という来歴から枝分かれした結果だ。
防災基地と業務集積と広大な公園とモノレールの結節が、一つの返還跡地の上に同居している。これを「自前で街を賄える便利な核都市」 として頼もしく見るか、「飛行場と基地の歴史を背負った街」 として受け止めるかは、住み手が街の何に目を向けるかで変わる。一つの飛行場が陸軍から米軍へ、そして公園と業務へと役目を継いだ末に、財政力 1.16 という自立した数字が立った。そこまでは筋が通る。あとは、駅前の集積と広い公園が日々の暮らしにとってどれだけの意味を持つか ── それを量るのは、ここで朝を迎える人の役目だ。
出典: 総務省 国勢調査 / 立川市 (沿革・地理 概説) / 立川飛行場 (沿革)
編集メモ: 数値・出典はすべて公的統計が由来です。 文体は Atlas の語り口に揃え、 AI (atlas-handcrafted-reverse-v1 (Daiki 2026-05-29)) が文章の整え方を担当しています。 評価語・予測語 (「狙い目」「魅力的」 等) は意図的に載せていません。 改訂識別子: wave6b_e





