この村の田は、はじめから田だったのではない。水を含んだ泥炭の原野で、稲の根を張れる土ではなかった。その悪条件の原野に運河を掘り、土を入れ替えて、石狩川の右岸に広大な水田を生み出したのだ。原野を田に変えるという、土そのものの作り替えを知らずに、この村の数字は読めない。新篠津村の数字は、泥炭の原野を運河で水田に変えた来歴が刻まれた村の記録だ。
北海道の石狩郡、石狩川の右岸に開ける村。明治の半ば、隣の村から分かれて独立した。村域のほとんどが石狩平野の中にあり、その大半が水田だ。だがその田は、もとは稲の育たない泥炭の原野で、戦後の運河の掘削と土地改良によって初めて水田となった。人口は二〇〇〇年の 3,940 人から二〇二〇年の 3,044 人へと減ってきた、北海道に残る数少ない村の一つだ。私 (Atlas) がここで読みたいのは「米の村」という記号ではなく、泥炭の原野を運河で水田に変えたという来歴が、現在の人口や財政にどう翻訳されているか、という因果の筋道だ。
01 · いまの新篠津村を、数字で見る
直近の国勢調査で人口は約三千人 (二〇二〇年 3,044 人)。二〇〇〇年の 3,940 人から二〇年で九百人ほど減り、六五歳以上の割合は二〇〇〇年の 22.9% から二〇二〇年の 37.5% へと上がった。石狩平野の小さな村として、減少と高齢化が静かに進んでいる。
住宅地の公示地価は一㎡あたり七千百円ほど。財政力指数は二〇二三年度に 0.18 と、自前の税収では歳出の二割弱しか賄えず、地方交付税に頼る度合いがきわめて大きい。村内に幼稚園はなく、保育所もかつては数のうえで限られ、医師は二〇二二年で一人だ。小学校は一校。これらは小さな村ならではの数字だが、なぜこの村が水田に覆われているのかは、泥炭の原野を運河で水田に変えた来歴を遡らないと読めない。
02 · 隣村からの分村・泥炭の原野・運河と土地改良 — 数字の背後にある来歴
新篠津を据えているのは、隣の村から分かれて独立したという出発点と、稲の育たない泥炭の原野、そしてそれを水田に変えた運河と土地改良だ。始まりの層は、分村である。明治の半ば、石狩川の右岸のこの一帯は、隣の村から分かれて独立した一つの村となった。村の名は、分かれた元の村の名に「新しい」の一字を冠したものだ。村域のほとんどは、石狩平野の低く平らな土地だった。
だが、その平らな土地は、はじめは田にはならなかった。水を多く含んだ泥炭の原野で、稲の根を張れる土ではなかったのだ。この悪条件の原野が水田に変わったのは、戦後のことだ。食糧の増産が求められたなか、この地域では広大な泥炭の原野を農地に変える事業が動き出す。水を抜き田に水を引く運河が掘られ、土地が改良され、石狩川の右岸に広大な水田地帯が生み出された。泥炭の原野が、稲の実る田に作り替えられたのだ。いまではこの村は、米が農業の生み出すものの半分を占める、稲作の村となっている。稲の育たない原野を、運河と土の入れ替えで水田に変える ── 新篠津の現在は、その作り替えの上に立っている。
出典: しんしのつ村の歴史 (1896〔明治29〕篠津村〔現 江別市篠津〕から分村・村域のほぼ全てが石狩平野の水田) / 篠津地域 泥炭地開発 (戦後の食糧増産で篠津運河の掘削と土地改良により広大な泥炭地を水田に変え、石狩川右岸に約1万1千haの水田地帯が誕生・米が農業生産額の半分を占める 概説)
03 · 小さな村では、施設の数そのものが暮らしの選択になる
人口三千人ほどの小さな村では、生活インフラの数が、より大きな町とは違う意味を持つ。村内に幼稚園はなく、小学校は一校だ。医師は二〇二二年で一人、一般診療所は三所。これらは、小さな村が抱えられる施設の規模の現実を映す。子育てや医療の多くの場面で、村の外の大きな町に頼る前提で暮らしが組み立てられている、と読める。
保育の利用定員は二〇二四年の 189 人から二〇二五年の 139 人へと減らされ、待機児童は両年ともゼロだ。定員が減らされたのは、子の数そのものが細っていることの表れと読める。子育て世帯の割合は二〇二〇年で 19.2%。小さな村では、施設が一つあるかないかが、そこで子を育てられるかどうかの分かれ目になる。施設の数の少なさは、村の規模が小さいことの帰結であり、暮らしの選択肢の幅と直結している。
出典: こども家庭庁 保育所等関連状況取りまとめ / 総務省 国勢調査
04 · 泥炭の原野を田に変えた、米と湖の村
新篠津には、二つの来歴が刻まれている。一つは、隣の村から分かれて独立し、村域のほとんどが石狩平野の水田である、という性格だ。もう一つが、その水田が、もとは稲の育たない泥炭の原野で、運河と土地改良によって作り替えられたものだ、という出発点だ。石狩川の右岸の低く平らな土地という地形が、泥炭の悪条件と、それを克服した水田の双方を、この村に与えた。
村には、この土地改良に伴って生まれた湖と、その湖畔の温泉がある。原野を田に変える事業は、結果として湖と憩いの場をも村に残した。泥炭の原野を運河で水田に変えた村が、いまその田と湖と温泉を抱えて、静かに人口を減らしている。
出典: しんしのつ村の歴史 (1896〔明治29〕篠津村〔現 江別市篠津〕から分村・村域のほぼ全てが石狩平野の水田) / 篠津地域 泥炭地開発 (戦後の食糧増産で篠津運河の掘削と土地改良により広大な泥炭地を水田に変え、石狩川右岸に約1万1千haの水田地帯が誕生・米が農業生産額の半分を占める 概説)
05 · Atlas メモ — 泥炭の原野を田に変えた事業と、人口三千の施設の薄さ
新篠津の数字を並べると、九百人ほどの人口減・高齢化率 37.5%・地価七千百円・財政力 0.18・幼稚園ゼロと、北海道の小さな村らしい指標が並ぶ。だが私 (Atlas) が公認会計士として原価の出どころを問う癖で言えば、ここでまず読みたいのは、この村の田が「はじめから田だったのではない」という来歴だ。水を含んだ泥炭の原野は、稲の根を張れる土ではなかった。その悪条件の原野に運河を掘り、土を入れ替えて、初めて水田が生まれた。いまこの村を覆う田は、自然のままの恵みではなく、土そのものを作り替えた事業の産物なのだ。一つの土地の生産力は、もとから与えられたものとは限らず、人の手で作り替えられたものでもありうる ── この村の田は、その実例だ。
もう一つ考えたいのは、財政力 0.18 という、自前の税収では歳出の二割弱しか賄えない数字だ。私の見方では、この薄さは、米を主とする小さな村の経済の素直な姿だ。幼稚園がなく、小学校が一校、医師が一人という施設の規模も、村の人口三千人という大きさの帰結であり、暮らしの多くの場面で村の外に頼る前提を意味する。小さな村で暮らすとは、その施設の数の現実を引き受けることでもある。幼稚園がなく、小学校が一校、医師が一人 ── この数の薄さは、人口三千人という村の大きさが、そのまま暮らしの形に降りてきた結果だ。泥炭の原野を田に変えた事業の大きさに比べて、いまの村に残された施設は、その人口に正直なほど小さい。
出典: 総務省 国勢調査 / しんしのつ村の歴史 (1896〔明治29〕篠津村〔現 江別市篠津〕から分村・村域のほぼ全てが石狩平野の水田) / 篠津地域 泥炭地開発 (戦後の食糧増産で篠津運河の掘削と土地改良により広大な泥炭地を水田に変え、石狩川右岸に約1万1千haの水田地帯が誕生・米が農業生産額の半分を占める 概説)
編集メモ: 数値・出典はすべて公的統計が由来です。 文体は Atlas の語り口に揃え、 AI (atlas-handcrafted-reverse-v1 (wave28-east 2026-06-04)) が文章の整え方を担当しています。 評価語・予測語 (「狙い目」「魅力的」 等) は意図的に載せていません。 改訂識別子: w28e_28a


