この町は、北海道に置かれた屯田兵が、最も北に、そして最後に鍬を入れた地として始まった。兵であり農でもある人々が、天塩川の上流の盆地を畑に変えた。だが寒冷の畑作だけでは、冬の間 男たちは本州へ出稼ぎに出るほかなかった。その冬の手を町に留めるために、戦後この町は、海の向こうから羊を入れる。畑作の地は、こうして「羊のまち」へと姿を変えた。最北で最後の屯田兵が開いた盆地は、いまは人口を二万を割って減らしている。士別市の数字は、最後の屯田兵と、冬を越すための羊という来歴が刻まれた町の記録だ。
北海道の北部、天塩川の上流に開ける盆地の市。この町は、北海道で最も北に、そして最後に入った屯田兵が拓いた畑作の地として、また戦後に羊を入れて「羊のまち」へと転じた地として、歴史を歩んできた。人口は二〇〇〇年の 23,065 人から、二〇〇五年の 23,411 人を経て、二〇一〇年の 21,787 人、二〇一五年の 19,914 人、二〇二〇年の 17,858 人へと、二〇年で五千人あまりを減らし、二万を割った。私 (Atlas) がここで読みたいのは「羊のまち」という記号ではなく、最後の屯田兵と冬を越すための羊という来歴が、現在の人口や財政にどう翻訳されているか、という因果の筋道だ。
01 · いまの士別市を、数字で見る
直近の国勢調査で人口は約一万八千人 (二〇二〇年 17,858 人)。二〇〇〇年の 23,065 人から、二〇〇五年の 23,411 人を経て、二〇一〇年の 21,787 人、二〇一五年の 19,914 人、二〇二〇年には 17,858 人へと、二〇年で五千人あまりが減り、二万を割った。北海道の内陸の市らしく、その坂はやや急だ。
中身を見ると、最後の屯田兵が開いた羊のまちの姿が出る。六五歳以上の割合は二〇〇〇年の 24.2% から二〇二〇年の 41.2% へと、二〇年で一七ポイントほど上がり、四割を超えた。子育て世帯の割合は二〇二〇年で 14.7% と、内陸の市のなかでも低い。就業率は二〇二〇年で 54.5%。保育の待機児童は二〇二四年に四人とわずかに生じ、二〇二五年はゼロ。財政力指数は二〇二三年度に 0.25 と、自前の税収では歳出の四分の一ほどしか賄えず、地方交付税に頼る度合いの大きい水準にある。最後の屯田兵が拓き羊を入れた盆地の市が、人口を二万を割って減らす姿が、数字に出ている。なぜこの形なのかは、屯田兵と羊の来歴を遡らないと読めない。
出典: 総務省 国勢調査 / 総務省 地方財政状況調査 (財政力指数) / こども家庭庁 保育所等関連状況取りまとめ / 国土交通省 不動産情報ライブラリ
02 · 最北で最後の屯田兵・冬の出稼ぎ・海を渡った羊 — 数字の背後にある来歴
この町の骨格は、最北で最後の屯田兵という出発点と、寒冷の畑作に伴う冬の出稼ぎ、そしてそれを止めるために入れた羊によって据えられている。始まりの層は、屯田兵である。明治の終わりに近い頃、北海道に置かれた屯田兵の一隊百戸が、この天塩川上流の盆地に入った。これは、北海道に展開した屯田兵としては最も北で、かつ最後の入植であった。兵であり農でもある人々が、北方の警備にあたりながら、寒冷の地を畑に変えた。最北で最後の屯田兵が、この町の古い土台であった。
だが、その畑作は寒冷の地ゆえに冬の手を持て余した。雪に閉ざされる冬の間、農家の男たちは本州へ出稼ぎに出るほかなく、町の暮らしは冬ごとに薄くなった。その冬の手を町に留めるために、戦後この町は一つの賭けに出る。海の向こうから羊を入れ、農の複合経営の柱に据えたのだ。畑と羊を組み合わせれば、冬にも仕事が生まれる。市営の牧場が開かれ、外つ国から運ばれた羊が盆地に放たれた。やがてこの羊は、町の産業であるだけでなく、町そのものの名として「羊のまち」を名乗らせるまでになった。最北で最後の屯田兵、冬の出稼ぎ、そして海を渡った羊。この三つを並べてみると、寒冷の畑作が抱え込んだ「冬の手余り」という一つの欠落を、羊という解で埋めようとした町の工夫が見えてくる。士別の現在は、その工夫の延長線上にある。
出典: 士別市/最北で最後の屯田兵 (1899〔明治32〕屯田兵第三大隊第五中隊の100戸が入地したのが開拓の始まりで、北海道に置かれた屯田兵としては最北かつ最後の入植であった・屯田兵は北方の警備と開拓にあたり鉄道の敷設や排水溝の掘削など共同施設づくりに追われた・1954 市制 概説) / 士別市/サフォークランド士別 (農家が冬の間 本州へ出稼ぎに行かずに済む複合経営をめざし、1966 学田地区に市営めん羊牧場を創設・翌 1967 オーストラリアからサフォーク種羊100頭を輸入したのが羊のまちの始まりで、いまは「サフォークランド士別」として市のシンボルとなった 概説)
03 · 羊を入れた盆地で、人口を二万を割って減らす
士別市の特徴は、最後の屯田兵と羊という来歴を抱えながら、人口を二〇年で五千人あまり、二万を割って減らしている点にある。二〇〇〇年の 23,065 人から二〇二〇年の 17,858 人まで、減りは二割を超える。屯田兵が拓いた畑作と、戦後に入れた羊は、冬の出稼ぎを止め町の暮らしを支えてはきたが、農を主とする内陸の盆地という性格は、若い世代が留まる働き口を町なかに作りにくい。天塩川上流の寒冷の地で、人口の流出が続いてきた、と読める。六五歳以上の割合が二〇二〇年で 41.2% と四割を超えたことは、その帰結だ。
その一方で、保育の待機児童は二〇二四年に四人とわずかに生じたものの二〇二五年はゼロで、子育て世帯の割合は二〇二〇年で 14.7%。財政力指数 0.25 は、自前の税収では歳出の四分の一ほどしか賄えない水準で、地方交付税に頼る度合いの大きさを示している。畑作と羊、そしてそれに連なる加工や観光の生業が、町の暮らしを支えてはいるが、自前の税源としては薄い。羊を入れた盆地の市は、いまは人口を二万を割って減らしながら、街の年齢を上げている。人口の減りは二割を超え、高齢化は四割を超え、財政の体力は四分の一。これらは別々の数字に見えて、いずれも「農を主とする寒冷の盆地」という同じ条件から流れ出ている。どれか一つを取り出して語っても、町の輪郭はぼやけたままだ。
04 · 最後の屯田兵が拓いた畑作が、冬のために羊を入れた
士別の成り立ちをたどると、二つの来歴が重なって見える。一つは、北海道に置かれた屯田兵が、最も北に、そして最後に入った地である、という出発点だ。もう一つが、その屯田兵が開いた寒冷の畑作が、冬の出稼ぎを止めるために戦後 海の向こうから羊を入れ、「羊のまち」へと転じた、という産業の性格だ。冬に閉ざされる天塩川上流の盆地という地形が、畑作の冬の手余りと、それを埋めるための羊という解を、この町に与えた。
言い換えれば、士別は最後の屯田兵が拓いた畑作が、冬のために羊を入れた町だ。最北で最後の屯田兵から、冬の出稼ぎ、海を渡った羊、そして二万を割った人口まで ── そのすべてを「天塩川上流の寒冷の盆地」という一語の地理が説明する。屯田兵の畑作も、その冬を埋めた羊も、もとをたどれば、この盆地が冬に手を余したという一事から生まれている。最北に最後に入った兵が拓いた畑の上を、いまも海を渡ってきた羊が冬の手を埋めながら歩いている。
出典: 士別市/最北で最後の屯田兵 (1899〔明治32〕屯田兵第三大隊第五中隊の100戸が入地したのが開拓の始まりで、北海道に置かれた屯田兵としては最北かつ最後の入植であった・屯田兵は北方の警備と開拓にあたり鉄道の敷設や排水溝の掘削など共同施設づくりに追われた・1954 市制 概説) / 士別市/サフォークランド士別 (農家が冬の間 本州へ出稼ぎに行かずに済む複合経営をめざし、1966 学田地区に市営めん羊牧場を創設・翌 1967 オーストラリアからサフォーク種羊100頭を輸入したのが羊のまちの始まりで、いまは「サフォークランド士別」として市のシンボルとなった 概説) / 総務省 国勢調査
05 · Atlas メモ — 冬の手を留めた羊が、町の性格までは変えられなかった
士別の数字を並べると、二〇年で五千人あまりの人口減・高齢化率 41.2%・子育て世帯率 14.7%・財政力 0.25 と、最後の屯田兵が開いた羊のまちの指標が、いずれも北海道の内陸の市のなかでは厳しめの水準で並ぶ。だが私(Atlas)が会計の目で帳尻の裏を読むように見たいのは、この町が羊を入れた理由そのものだ。寒冷の地の畑作は、冬に手が余る。その冬の手を町に留めるために、農家は海の向こうから羊を入れ、畑と羊を組み合わせて冬にも仕事を作った。羊は、町おこしの飾りとしてではなく、「冬の出稼ぎを止める」という暮らしの必要から入れられた、という来歴は、この町の成り立ちをよく説明する。
もう一つ考えたいのは、その羊が「冬を越す」ための解であったのに、いまもこの町が人口を二割を超えて減らしている、という点だ。羊は冬の手を留めはしたが、農を主とする内陸の盆地という性格そのものを変えるには至らなかった。働き口の薄さは、若い世代を町の外へ押し出し続けてきた。冬の手余りという一つの課題に、羊という具体の解を当てた鮮やかさ。その鮮やかさが、人口の流出というより大きな流れまでは止めきれなかったこと。一つの課題への見事な答えが、別の流れまでは届かないことがある ── 羊のまちの数字は、その現実を静かに教える。
出典: 総務省 国勢調査 / 士別市/最北で最後の屯田兵 (1899〔明治32〕屯田兵第三大隊第五中隊の100戸が入地したのが開拓の始まりで、北海道に置かれた屯田兵としては最北かつ最後の入植であった・屯田兵は北方の警備と開拓にあたり鉄道の敷設や排水溝の掘削など共同施設づくりに追われた・1954 市制 概説) / 士別市/サフォークランド士別 (農家が冬の間 本州へ出稼ぎに行かずに済む複合経営をめざし、1966 学田地区に市営めん羊牧場を創設・翌 1967 オーストラリアからサフォーク種羊100頭を輸入したのが羊のまちの始まりで、いまは「サフォークランド士別」として市のシンボルとなった 概説)
編集メモ: 数値・出典はすべて公的統計が由来です。 文体は Atlas の語り口に揃え、 AI (atlas-handcrafted-reverse-v1 (Daiki 2026-06-02)) が文章の整え方を担当しています。 評価語・予測語 (「狙い目」「魅力的」 等) は意図的に載せていません。 改訂識別子: wave27e_




