この街の川沿いでは、幕末に北の大地を歩いた一人の探検家が、石炭を見つけている。やがて坑が開かれ、最も栄えた頃には六万に近い人がこの川沿いに暮らし、街の駅は、一年に扱う貨物の量で、日本のどの駅よりも多くを記録した。坑から運び出される石炭が、それほどの量にのぼったのである。だが時代の燃料が石炭から石油へと移ろうと、坑は閉じ、平成の半ばには最後の一山も灯を消した。貨物日本一を記録した街は、いまや人口を一万を割って減らしてきた。赤平市の数字は、空知の石炭と一つの坑という来歴が刻まれた街の記録だ。
北海道の中央やや西、空知の川の流れる地に開ける市。この街の川沿いでは幕末に石炭が見つかり、二十世紀の前半に坑が開かれて、空知の炭田の発展を支える炭鉱の街として栄えた。人口は二〇〇〇年の 15,753 人から、二〇〇五年の 14,401 人、二〇一〇年の 12,637 人、二〇一五年の 11,105 人、二〇二〇年の 9,698 人へと、二〇年で一万を割って減ってきた。私 (Atlas) がここで読みたいのは「旧産炭地」 という記号ではなく、空知の石炭と一つの坑という来歴が、現在の人口や財政にどう翻訳されているか、という因果の筋道だ。
01 · 赤平市の数字を、いまの一枚で見る
直近の国勢調査で人口は約九千七百人 (二〇二〇年 9,698 人)。二〇〇〇年の 15,753 人から、二〇〇五年の 14,401 人、二〇一〇年の 12,637 人、二〇一五年の 11,105 人を経て、二〇二〇年には 9,698 人と、二〇年で六千人ほどが減り、一万を割った。
中身を見ると、坑を閉じた炭鉱の街の姿が出る。六五歳以上の割合は二〇〇〇年の 29.9% から二〇二〇年の 48.1% へと、二〇年で一八ポイントほど上がり、いまや市民の半分に迫る。子育て世帯の割合は二〇二〇年でわずか 10.5% と低い。保育の待機児童は二〇二四年・二〇二五年ともゼロ。財政力指数は二〇二三年度に 0.18 と、自前の税収では歳出の二割にも届かず、地方交付税に頼る度合いの大きい水準にある。駅の貨物量で日本一を記録したほどの石炭を運び出した街が、坑を閉じたのち人口を一万を割って減らし、高齢化を半分近くまで進める姿が、数字に出ている。なぜここまでの形になったのかは、空知の石炭と一つの坑の来歴を遡らないと読めない。
出典: 総務省 国勢調査 / 総務省 地方財政状況調査 (財政力指数) / こども家庭庁 保育所等関連状況取りまとめ / 国土交通省 不動産情報ライブラリ
02 · 空知の川沿いの石炭・坑の開鉱・六万の人口と貨物日本一・最後の一山の閉山 — 数字の背後にある来歴
この街の骨格は、空知の川沿いで見つかった石炭と、坑の開鉱、それが集めた六万に近い人口と貨物日本一の記録、そして最後の一山の閉山によって据えられている。始まりの層は、石炭である。幕末、北の大地を歩いた一人の探検家が、この地の川沿いで石炭を見つけた。二十世紀の前半、その石炭を掘る坑が開かれ、街は炭鉱の町として急に大きくなった。最も栄えた頃には、六万に近い人がこの川沿いに暮らした。石炭が、この街そのものを生んだ。
その坑から運び出される石炭は、おびただしい量にのぼった。街の駅が一年に扱う貨物の量は、日本のどの駅よりも多くを記録したと伝わる。石炭が掘られ、運ばれていく量の大きさが、そのまま街の盛りを映していた。だが、時代の燃料は移ろった。昭和の三十年代の後半から石炭産業は衰退に向かい、坑は閉じていき、平成の半ばには、最後の一山も灯を消した。空知の川沿いの石炭と、坑の開鉱、六万の人口と貨物日本一、そして最後の一山の閉山 ── この街の形は、空知の川沿いで見つかった石炭が、人を集め、貨物日本一を記録し、そして去ったあとの来歴の上に立っている。
出典: 赤平市/炭鉱と貨物日本一 (1857 松浦武四郎が空知川沿岸で石炭を発見・1938 住友赤平炭鉱ほかが開坑し、1960 人口ピーク 59,430 人を数え、赤平駅の年間貨物取扱量が日本一を記録するなど空知炭田の発展を支えた 概説) / 赤平市/閉山と人口 (昭和30年代後半からの石炭産業の衰退で、1994 に最後の一山が閉山した・2019-10 に人口が1万人を割り込んだ 概説)
03 · 坑を閉じた川沿いで、人口を一万を割って減らし高齢化を半分近くまで進める
赤平市の特徴は、空知の石炭と一つの坑という来歴を抱えながら、人口を二〇年で一万を割って減らしている点にある。二〇〇〇年の 15,753 人から二〇二〇年の 9,698 人まで、二〇年で六千人ほどが減った。最も栄えた頃に六万に近かった人口は、坑の閉山とともに川沿いを出ていき、平成も後半に入った頃、人口は一万を割った。残った世帯の年齢は高く、六五歳以上の割合が二〇二〇年で 48.1% と半分に迫ることは、その帰結だ。
その一方で、保育の待機児童は二〇二四年・二〇二五年ともゼロだが、子育て世帯の割合は二〇二〇年で 10.5% と極めて低く、保育を待つ子の数自体が少ないことの裏返しと読むのが正確だ。財政力指数 0.18 は、自前の税収では歳出の二割にも届かず、国内の市のなかでも際立って低く、国の支えに頼る度合いの大きさを示している。坑という街の生業の柱を失ったのち、税源は極めて薄い。一万を割った人口、半分に迫る高齢化、二割に満たない財政。これらは互いに無関係な不調ではなく、坑から運び出される石炭が駅の貨物量を全国一に押し上げたあの盛りと、それを支えた一つの坑が消えたあとの薄さとが、同じ一つの生業の上に積み重なって生まれた帰結だ。
04 · 石炭が六万を集め、貨物日本一を記録し、そして手放した街
赤平が抱えるものは、いくつかある。一つは、幕末に探検家が川沿いで石炭を見つけ、二十世紀の前半に坑が開かれて六万に近い人を集めた、空知の炭田を支えた炭鉱の街だったという来歴だ。もう一つが、その坑から運び出される石炭の量が大きく、街の駅が一年に扱う貨物の量で日本のどの駅よりも多くを記録した、という性格だ。そして、時代の燃料が移って坑が閉じ、平成の半ばに最後の一山も消え、人口が一万を割った、という落差を抱える。空知の川沿いという地形が、石炭という一つの資源に街の命運を委ねさせた。
川沿いの石炭から、坑の開鉱へ、六万の人口と貨物日本一へ、そして最後の一山の閉山へ。空知の川沿いという地理は、一つの資源に街を賭けさせ、その盛りを駅の貨物日本一にまで押し上げた。掘られ運ばれる量の大きさが、そのまま街の大きさだった。だからこそ、その流れが途絶えたときの落差も、赤平ではとりわけ深く刻まれている。
出典: 赤平市/炭鉱と貨物日本一 (1857 松浦武四郎が空知川沿岸で石炭を発見・1938 住友赤平炭鉱ほかが開坑し、1960 人口ピーク 59,430 人を数え、赤平駅の年間貨物取扱量が日本一を記録するなど空知炭田の発展を支えた 概説) / 赤平市/閉山と人口 (昭和30年代後半からの石炭産業の衰退で、1994 に最後の一山が閉山した・2019-10 に人口が1万人を割り込んだ 概説) / 総務省 国勢調査
05 · Atlas メモ — 貨物日本一と財政力 0.18 の振れ幅
赤平の数字を並べると、二〇年で一万を割った人口・高齢化率 48.1%・子育て世帯の割合 10.5%・財政力 0.18 と、坑を閉じた炭鉱の街の指標が、いずれも厳しい水準で並ぶ。この街でいちばん雄弁なのは、二つの数字の振れ幅だ。かつて街の駅が一年に扱う貨物の量は、全国のどの駅をも上回って一番を記録した。坑から運び出される石炭が、それほどの量にのぼったのである。
その一番の記録と、いまの財政力指数 0.18 を、私(Atlas)は会計の帳簿を突き合わせる手つきで、同じ目盛りの上に並べてみる。貨物量で全国一に届いた街が、坑を失ったのちには、自前の税収で歳出の二割にも手が届かない水準まで落ちた。全国一という頂と、国内の市でも際立って低いという底とが、同じ一つの川沿いの、同じ一つの生業の、八〇年ほどの間の両端である。一つの資源に深く依った街が、その資源を手放したとき、頂が高かったぶんだけ底も深い ── 振れ幅の大きさそれ自体が、この街がどれほど一つの坑に賭けていたかを物語っている。0.18 という数字の小ささは、貨物日本一という記録の大きさと、表と裏で同じ一枚なのだ。
出典: 総務省 国勢調査 / 赤平市/炭鉱と貨物日本一 (1857 松浦武四郎が空知川沿岸で石炭を発見・1938 住友赤平炭鉱ほかが開坑し、1960 人口ピーク 59,430 人を数え、赤平駅の年間貨物取扱量が日本一を記録するなど空知炭田の発展を支えた 概説) / 赤平市/閉山と人口 (昭和30年代後半からの石炭産業の衰退で、1994 に最後の一山が閉山した・2019-10 に人口が1万人を割り込んだ 概説)
編集メモ: 数値・出典はすべて公的統計が由来です。 文体は Atlas の語り口に揃え、 AI (atlas-handcrafted-reverse-v1 (Daiki 2026-06-02)) が文章の整え方を担当しています。 評価語・予測語 (「狙い目」「魅力的」 等) は意図的に載せていません。 改訂識別子: wave25_4





