この街では、二つの大きな財閥が、石狩の平野の東で別々に坑を掘った。二つの炭鉱が同じ街に並び立ち、最も栄えた頃には九万を超える人がここに暮らした。だが時代の燃料が移ろうと、二つの坑はあいついで閉じ、坑内を掘る炭鉱は街から消えた。坑が去ったその街は、ここに生まれイタリアに学んだ一人の彫刻家を世に送り、彼は閉じた学び舎の跡に、石を彫った作品を野に置く場をひらいた。炭鉱が生んだ街は、いまは人口を二万のあたりへと減らしてきた。美唄市の数字は、二つの財閥の坑と彫刻家という来歴が刻まれた街の記録だ。
北海道の中央やや西、石狩の平野の東の縁に開ける市。この街は二十世紀の前半、二つの大きな財閥がそれぞれに坑を掘り、二大炭鉱を擁する石狩の炭田の主要な炭鉱町として栄えた。人口は二〇〇〇年の 31,183 人から、二〇〇五年の 29,083 人、二〇一〇年の 26,034 人、二〇一五年の 23,035 人、二〇二〇年の 20,413 人へと、二〇年で二万のあたりまで減ってきた。私 (Atlas) がここで読みたいのは「旧産炭地」 という記号ではなく、二つの財閥の坑と彫刻家という来歴が、現在の人口や財政にどう翻訳されているか、という因果の筋道だ。
01 · 炭鉱が生んだ街・美唄市を、数字で見る
直近の国勢調査で人口は約二万人 (二〇二〇年 20,413 人)。二〇〇〇年の 31,183 人から、二〇〇五年の 29,083 人、二〇一〇年の 26,034 人、二〇一五年の 23,035 人を経て、二〇二〇年には 20,413 人と、二〇年で一万人あまりが減り、二万のあたりに来た。
中身を見ると、二つの坑を閉じた炭鉱の街の姿が出る。六五歳以上の割合は二〇〇〇年の 25.1% から二〇二〇年の 42.3% へと、二〇年で一七ポイントほど上がり、いまや市民の四割を超える。子育て世帯の割合は二〇二〇年で 12.6%。保育の待機児童は二〇二四年・二〇二五年ともゼロ。財政力指数は二〇二三年度に 0.26 と、自前の税収では歳出の三割に届かず、地方交付税に頼る度合いの大きい水準にある。二つの財閥の坑で九万を超えた炭鉱の街が、坑を閉じたのち人口を二万のあたりへ減らし、高齢化を四割まで進める姿が、数字に出ている。なぜこの形なのかは、二つの坑と閉山の来歴を遡らないと読めない。
出典: 総務省 国勢調査 / 総務省 地方財政状況調査 (財政力指数) / こども家庭庁 保育所等関連状況取りまとめ / 国土交通省 不動産情報ライブラリ
02 · 石狩の平野の東・二つの財閥の坑・九万の人口・坑の閉山と彫刻家 — 数字の背後にある来歴
この街の骨格は、石狩の平野の東という地形と、二つの財閥が掘った坑、それが集めた九万を超える人口、そして坑の閉山ののちに街が送り出した彫刻家によって据えられている。始まりの層は、二つの坑である。二十世紀の前半、一つの財閥が鉄道を含む炭鉱を取得して開発を加速させ、のちにもう一つの財閥も進出して、この街は二大炭鉱を擁する石狩の炭田の主要な炭鉱町となった。一つの街に、二つの大きな坑が並び立ち、最も栄えた頃には九万を超える人がここに暮らした。二つの坑が、この街そのものを生んだ。
だが、時代の燃料は移ろった。暮らしと工場の燃料が石炭から石油へと移ると、二つの坑はあいついで閉じ、坑内を掘る炭鉱は街から消えた。坑が去ったその街は、しかし、ここに生まれイタリアに学んだ一人の彫刻家を世に送った。彼は、人が去って閉じた学び舎の跡に、石を彫った作品を野に置く場をひらき、坑の去った街に、別の時間の流れを刻んだ。石狩の平野の東と、二つの財閥の坑、九万の人口、そして坑の閉山と彫刻家 ── この街の形は、石狩の平野の東で二つの坑が人を集め、そして去ったあとの来歴の上に立っている。
出典: 美唄市/三菱・三井の炭鉱 (1915 三菱が飯田美唄炭鉱〔鉄道を含む〕を取得して開発が加速し、1928 三井も進出して二大炭鉱を擁する石狩炭田の主要な炭鉱町となった・人口は1950年代に9万を超えた 概説) / 美唄市/閉山と安田侃 (三井美唄炭鉱は 1963、三菱美唄炭鉱は 1972 に閉山し坑内掘りの炭鉱が市から消えた・美唄出身でイタリアに学んだ彫刻家 安田侃が、閉校した小学校の跡に 1992 開設した野外彫刻の美術館〔アルテピアッツァ美唄〕がある 概説)
03 · 二つの坑を閉じた街で、人口を二万のあたりへ減らし高齢化を四割まで進める
美唄市の特徴は、二つの財閥の坑と彫刻家という来歴を抱えながら、人口を二〇年で二万のあたりまで減らし、高齢化を四割まで進めている点にある。二〇〇〇年の 31,183 人から二〇二〇年の 20,413 人まで、二〇年で一万人あまりが減った。最も栄えた頃に九万を超えた人口は、二つの坑の閉山とともに街を出ていき、残った世帯の年齢は高い。六五歳以上の割合が二〇二〇年で 42.3% と四割を超えたことは、その帰結だ。
その一方で、保育の待機児童は二〇二四年・二〇二五年ともゼロで、子育て世帯の割合は二〇二〇年で 12.6% と低い。財政力指数 0.26 は、自前の税収では歳出の三割に届かない水準で、地方交付税に頼る度合いの大きさを示している。二つの坑という街の生業の柱を失ったのち、平野の農業や、彫刻家の遺した場を訪れる人を迎える生業などが残るが、税源は薄い。二つの坑を閉じた炭鉱の街は、いまも人口を減らし、高齢化を進めている。二万前後の人口、四割を超えた高齢化、三割に届かない財政。九万を集めた二つの坑が同じ時代の波で閉じたとき、その九万が同じ速さで去った ── 数字はいずれも、その一度の引き潮の名残である。
04 · 坑が去った跡に、彫刻家が別の時間を置いた
美唄が抱える来歴は、二つの坑が去った跡に、一人の彫刻家が別の時間を置いていったところにある。一つは、石狩の平野の東で、二つの大きな財閥がそれぞれに坑を掘り、二大炭鉱を擁して九万を超える人を集めた、石狩の炭田の主要な炭鉱町という来歴だ。もう一つが、時代の燃料が移って二つの坑がいずれも閉じ、坑内を掘る炭鉱が街から消えた、という性格だ。そして、坑の去ったその街が、ここに生まれた彫刻家を世に送り、閉じた学び舎の跡に石を彫った作品を野に置く場を遺した、という独自の輪郭を持つ。
二つの財閥の坑から、九万の人口へ、坑の閉山へ、そして彫刻家の遺した場へ。石狩の平野の東で、二つの大きな坑が同じ街に並び立ち、九万を超える人を集めた。坑が去ったあと、人の消えた学び舎の跡には石を彫った作品が野に置かれた ── 産業の物語が引いたのち、一人の彫刻家が別の時間をこの街に残した。
出典: 美唄市/三菱・三井の炭鉱 (1915 三菱が飯田美唄炭鉱〔鉄道を含む〕を取得して開発が加速し、1928 三井も進出して二大炭鉱を擁する石狩炭田の主要な炭鉱町となった・人口は1950年代に9万を超えた 概説) / 美唄市/閉山と安田侃 (三井美唄炭鉱は 1963、三菱美唄炭鉱は 1972 に閉山し坑内掘りの炭鉱が市から消えた・美唄出身でイタリアに学んだ彫刻家 安田侃が、閉校した小学校の跡に 1992 開設した野外彫刻の美術館〔アルテピアッツァ美唄〕がある 概説) / 総務省 国勢調査
05 · 閉じた学び舎の跡に、石の作品が野に置かれる
美唄の数字を並べると、二万のあたりへ減った人口・高齢化率 42.3%・子育て世帯の割合 12.6%・財政力 0.26 と、二つの坑を閉じた炭鉱の街の指標が並ぶ。だが私 (Atlas) が会計の目で読みたいのは、この街が「一つの街に二つの大きな坑が並び立っていた」 という来歴だ。二つの財閥がそれぞれに坑を掘り、二大炭鉱を擁したこの街は、最も栄えた頃に九万を超える人を集めた。だが、二つの坑が同じ時代の波で閉じたとき、その九万は同じ速さで街を去った。一つの資源に、しかも二重に依っていた街が、その資源を失ったときの落差は大きい、という構図は、高齢化率 42.3% という数字をよく説明する。
その落差の跡に、いまこの街が抱えているものを思い浮かべてほしい。かつて子どもたちが通った小学校は、人が去って閉じられた。その跡地に、この街に生まれイタリアで学んだ彫刻家が、白い大理石を磨いた作品を野ざらしのまま点々と置いた。九万人がいた頃の喧噪も、坑から響いた音も、もうない。広い芝生に、磨かれた石が静かに横たわり、訪れた人がその冷たい表面に手を置いて帰っていく。四割を超えた高齢化も、三割に届かない財政も、この場の静けさと地続きにある。坑が掘り出した黒い石炭で栄えた街が、坑を失ったあと、白い大理石の点在する草地を抱えるに至った。黒い石が人を集め、白い石が静けさを呼んだ ── そのあいだに流れた半世紀を、磨かれた大理石に手のひらを当てながら想像できる場所は、そう多くはない。
出典: 総務省 国勢調査 / 美唄市/三菱・三井の炭鉱 (1915 三菱が飯田美唄炭鉱〔鉄道を含む〕を取得して開発が加速し、1928 三井も進出して二大炭鉱を擁する石狩炭田の主要な炭鉱町となった・人口は1950年代に9万を超えた 概説) / 美唄市/閉山と安田侃 (三井美唄炭鉱は 1963、三菱美唄炭鉱は 1972 に閉山し坑内掘りの炭鉱が市から消えた・美唄出身でイタリアに学んだ彫刻家 安田侃が、閉校した小学校の跡に 1992 開設した野外彫刻の美術館〔アルテピアッツァ美唄〕がある 概説)
編集メモ: 数値・出典はすべて公的統計が由来です。 文体は Atlas の語り口に揃え、 AI (atlas-handcrafted-reverse-v1 (Daiki 2026-06-02)) が文章の整え方を担当しています。 評価語・予測語 (「狙い目」「魅力的」 等) は意図的に載せていません。 改訂識別子: wave25_3



![中村豊次郎。アメリカ留学経験があり、22歳で入植して大規模な中村農場を建設[9]。石狩川自動揚水機の開発に成功するなど米どころ中村地区の基盤を築いた[10]。](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6f/Nakamura_Toyojiro.jpg)

