この街の城下は、二つの高台と、その間の谷あいで出来ている。二つの高台には、それぞれ武士の住む屋敷が並び、谷あいには商人の町が通る。高台の武士の町が、谷あいの商人の町を両側から挟む、めずらしい形の城下が、いまも坂と石畳とともに残る。この城下は、半島の南の付け根にあって、長らくその半島の政と商いの中心であった。旧来の市と、隣り合う一つの町と一つの村、その三つが一つに束ねられて、いまの市が発足した。坂の城下の地であるこの地は、合併で市域を広げながら、人口を減らしてきた。杵築市の数字は、武家屋敷の挟む町と合併という来歴が刻まれた街の記録だ。
大分県の北東部、半島の南の付け根に開ける市。この市は二〇〇五年、旧来の市と一つの町と一つの村が一つに束ねられて発足した。旧来の市の単独では二〇〇〇年に 22,746 人、合併を反映した二〇〇五年は 33,567 人、そこから二〇二〇年の 27,999 人へと推移してきた。私 (Atlas) がここで読みたいのは「半島の市」 という記号ではなく、武家屋敷の挟む町と合併という来歴が、現在の人口や財政にどう翻訳されているか、という因果の筋道だ。
01 · いまの杵築市を、数字で見る
直近の国勢調査で人口は約二万八千人 (二〇二〇年 27,999 人)。この市の人口は、合併で測る範囲が変わったため、注意して読む必要がある。旧来の市の単独では二〇〇〇年に 22,746 人で、二〇〇五年に一つの町と一つの村を加えて一つの市となった後の人口は 33,567 人へと一度増える。これは人口が実際に増えたのではなく、測る範囲が広がったことによる段差である。その後は二〇一〇年の 32,083 人、二〇一五年の 30,185 人、二〇二〇年の 27,999 人へと減ってきた。
中身を見ると、坂の城下の市が年齢を上げる姿が出る。六五歳以上の割合は二〇一五年の 34.4% から二〇二〇年の 37.1% へと上がり、三割を大きく超えた。子育て世帯の割合は二〇二〇年で 16.6%、粗出生率は二〇二〇年で千人あたり 5.5。保育の待機児童は二〇二四年・二〇二五年ともゼロ。財政力指数は二〇二三年度に 0.33 と、自前の税収では歳出の三割あまりしか賄えず、地方交付税に頼る度合いの大きい水準にある。坂の城下の地が、合併で市域を広げながら人口を減らす姿が数字に出ている。なぜこの形なのかは、半島の城下と武家屋敷の挟む町と合併の来歴を遡らないと読めない。
出典: 総務省 国勢調査 / 総務省 地方財政状況調査 (財政力指数) / こども家庭庁 保育所等関連状況取りまとめ / 国土交通省 不動産情報ライブラリ
02 · 半島の城下・武家屋敷の挟む町・坂と石畳・一市一町一村の合併 — 数字の背後にある来歴
この街の骨格は、半島の城下という位置と、武家屋敷の挟む町、坂と石畳、そして旧来の市と一つの町と一つの村の合併によって据えられている。始まりの層は、半島の城下である。この地は、半島の南の付け根にあり、江戸の世には三万二千石の城下町として、長らくその半島の政と商いの中心であった。半島の南の付け根という位置が、この街の土台であった。
この城下は、めずらしい形をしていた。二つの高台には、それぞれ武士の住む屋敷が並び、その間の谷あいには商人の町が通った。高台の武士の町が、谷あいの商人の町を両側から挟む、この形の城下は、いまも坂と石畳とともに残る。市となった道のりも、この街を映す。二〇〇五年、旧来の市と、隣り合う一つの町と一つの村、その三つは一つに束ねられて、いまの市となった。これにより、市の測る範囲が広がり、人口の統計に段差が生じた。半島の城下と、武家屋敷の挟む町、坂と石畳、そして一市一町一村の合併 ── この街の形は、半島の政と商いの中心であった城下が刻んだ、城下と合併の来歴の上に立っている。
出典: 杵築市/杵築城とサンドイッチ型城下町 (江戸期は杵築藩松平氏3万2千石の城下町で、二つの高台の武士の町が谷あいの商人の町を挟む「サンドイッチ型城下町」 概説) / 杵築市/国東半島南部 (大分県北東部の国東半島南部に位置し、廃藩置県まで国東半島の政治・経済の中心地であった 概説) / 杵築市 (2005-10-1 旧杵築市+速見郡 山香町+西国東郡 大田村が新設合併で発足・旧杵築市単独は2000=22,746・市域が広がった 概説)
03 · 坂の城下の地で、合併で市域を広げながら人口を減らす
杵築市の特徴は、武家屋敷の挟む町という来歴を抱えながら、合併で市域を広げた後、人口を減らしている点にある。二〇〇五年の合併で、市の人口は 33,567 人へと一度増えたが、これは旧来の市に一つの町と一つの村を加えて測る範囲が広がったことによる段差で、実際に人口が増えたわけではない。その後は二〇一〇年の 32,083 人、二〇一五年の 30,185 人、二〇二〇年の 27,999 人へと減ってきた。坂の城下のこの地でも、若い世代の一部がより大きな都市の方へ移って、街全体の年齢が上がってきたと読める。六五歳以上の割合が二〇二〇年で 37.1% と三割を大きく超えたことは、その表れだ。
その一方で、保育の待機児童は二〇二四年・二〇二五年ともゼロで、子育て世帯の割合は二〇二〇年で 16.6%、粗出生率は二〇二〇年で千人あたり 5.5。財政力指数 0.33 は、自前の税収では歳出の三割あまりしか賄えない水準で、半島の城下の地に共通して見られる、地方交付税に頼る度合いの大きさを示している。坂の城下の地は、いまは合併で市域を広げながら人口を減らしている。二つの高台に武士の屋敷が並び、その間の谷あいを商人の町が通る ── 坂を上り下りしながら石畳を歩けば、武士の町と商人の町を隔てる高低差が、足の裏で分かる。その地形が往時の城下の形を守り、同じ地形が、いまは若い世代の暮らしにくさにもなっている。
04 · 半島の政と商いの中心であった城下が、武家屋敷の挟む町を残した、という来歴
杵築が抱える機能は、一つではない。半島の南の付け根にあって、江戸の世に三万二千石の城下町として半島の政と商いの中心であった。二つの高台の武士の町が、谷あいの商人の町を両側から挟む、めずらしい形の城下を、坂と石畳とともに残している。
半島の城下という位置から、武家屋敷の挟む町、坂と石畳、そして一市一町一村の合併まで ── 「半島の南の付け根」 という地理が、半島の政と商いの中心となる城下を生み、武家屋敷の挟む町を残してきた。半島の城下と武家屋敷の町が、大分県北東部という同じ一つの場所に折り重なって、いまの杵築の形を据えている。
出典: 杵築市/杵築城とサンドイッチ型城下町 (江戸期は杵築藩松平氏3万2千石の城下町で、二つの高台の武士の町が谷あいの商人の町を挟む「サンドイッチ型城下町」 概説) / 杵築市/国東半島南部 (大分県北東部の国東半島南部に位置し、廃藩置県まで国東半島の政治・経済の中心地であった 概説) / 杵築市 (2005-10-1 旧杵築市+速見郡 山香町+西国東郡 大田村が新設合併で発足・旧杵築市単独は2000=22,746・市域が広がった 概説)
05 · Atlas メモ — 坂の城下で、地形が古い城下の形を守った来歴を読む
杵築の数字を並べると、合併で段差のある人口・高齢化率 37.1%・子育て世帯の割合 16.6%・財政力 0.33 と、半島の城下の市が年齢を上げる指標が並ぶ。まず確かめたいのは、二〇〇五年に人口が増えたように見えるのは、旧来の市に一つの町と一つの村を加えて測る範囲が広がった段差であって、実際に人が増えたわけではない、という点だ。旧来の市の単独では、二〇〇〇年に 22,746 人だった。合併のあった街の人口は、測る範囲の変化を踏まえないと読み誤る。範囲が変わった年の段差を、人口の増加と取り違えてはならない、というのが、数字を読むときの第一の注意だ。
もう一つ考えたいのは、この街が「二つの高台の武士の町が、谷あいの商人の町を両側から挟む」 という、めずらしい形の城下を、坂と石畳とともに残している、という点だ。多くの城下町が、近代の市街化のなかで往時の形を失うなかで、この城下は高台と谷あいという地形に守られて、武士の町と商人の町の配置を残した。地形が、城下の古い形を守ってきた。
会計の目で数字を扱う私(Atlas)からは、高台を上り、谷へ下り、また高台へ上る ── その石畳の坂を一度歩けば、数字の手前にあるこの街の身体の感覚が分かる、とだけ言っておく。
出典: 総務省 国勢調査 / 杵築市/杵築城とサンドイッチ型城下町 (江戸期は杵築藩松平氏3万2千石の城下町で、二つの高台の武士の町が谷あいの商人の町を挟む「サンドイッチ型城下町」 概説) / 杵築市/国東半島南部 (大分県北東部の国東半島南部に位置し、廃藩置県まで国東半島の政治・経済の中心地であった 概説) / 杵築市 (2005-10-1 旧杵築市+速見郡 山香町+西国東郡 大田村が新設合併で発足・旧杵築市単独は2000=22,746・市域が広がった 概説)
編集メモ: 数値・出典はすべて公的統計が由来です。 文体は Atlas の語り口に揃え、 AI (atlas-handcrafted-reverse-v1 (wave34-west 2026-06-04)) が文章の整え方を担当しています。 評価語・予測語 (「狙い目」「魅力的」 等) は意図的に載せていません。 改訂識別子: wave34w_





