この街は、二つの古い都のちょうど中ほどに置かれている。北に京、南に奈良 ── その間に挟まれた地は、長く田畑の広がる純農村であった。だが近畿の人びとが都市へ集まりはじめた昭和の半ば過ぎ、交通の便のよいこの地は、にわかに住宅都市へと姿を変えた。田が宅地へと変わり、人口は短い間に膨らんだ。いまも南部では梅の栽培が続き、砂地ではいもが育つ。農の名残と、宅地の広がりが、同じ街に同居している。京と奈良の中間の地であるこの街は、いまは人口を減らしている。城陽市の数字は、純農村から住宅都市へ転じた来歴が刻まれた街の記録だ。
京都府の南部、京都市と奈良市のほぼ中間に位置する地に開ける市。人口は二〇〇〇年の 84,346 人から二〇二〇年の 74,607 人へと、減ってきた。この市は昭和の半ばに町として成立し、その後に市制を施行して以来、平成の合併を経ず、単独で歩んできたため、近年の人口の推移に合併由来の段差はない。私 (Atlas) がここで読みたいのは「住宅都市」 という記号ではなく、純農村から住宅都市へ転じた来歴が、現在の人口や財政にどう翻訳されているか、という因果の筋道だ。
01 · いまの城陽市を、数字で見る
直近の国勢調査で人口は約七万五千人 (二〇二〇年 74,607 人)。この市は平成の合併を経ず単独で歩んできたため、近年の人口の推移に合併由来の段差はない。二〇〇〇年の 84,346 人から、二〇〇五年の 81,636 人、二〇一〇年の 80,037 人、二〇一五年の 76,869 人、二〇二〇年の 74,607 人へと、二〇年で一万人ほどが減ってきた。
中身を見ると、かつて急に膨らんだ住宅都市が年齢を上げる姿が出る。六五歳以上の割合は二〇〇〇年の 13.8% から二〇一〇年の 24.2%、二〇一五年の 31.1%、二〇二〇年の 33.6% へと、二〇年で二〇ポイント余りも上がった。子育て世帯の割合は二〇二〇年で 20.1%、粗出生率は二〇二〇年で千人あたり 5.7。保育の待機児童は、二〇二四年・二〇二五年ともゼロ。財政力指数は二〇二三年度に 0.59 と、自前の税収で歳出の六割弱を賄える水準にある。京と奈良の中間の住宅都市が、人口を減らしながら年齢を上げる姿が数字に出ている。なぜこの形なのかは、純農村から住宅都市へ転じた来歴を遡らないと読めない。
出典: 総務省 国勢調査 / 総務省 地方財政状況調査 (財政力指数) / こども家庭庁 保育所等関連状況取りまとめ / 国土交通省 不動産情報ライブラリ
02 · 二つの都の中間・純農村・宅地化・梅と砂地の農 — 数字の背後にある来歴
この街の骨格は、二つの都の中間という位置と、純農村の時代、宅地化、そして梅と砂地の農によって据えられている。始まりの層は、二つの都の中間である。この地は、京都府の南部、北の京と南の奈良のちょうど中ほどに置かれている。古い二つの都に挟まれたこの地は、長く田畑の広がる純農村であった。二つの都の中間という位置が、この街の土台であった。
この純農村の地が、宅地へと姿を変えた。昭和の半ば過ぎ、近畿の人びとが都市へ集まりはじめると、交通の便のよいこの地は、京と大阪へ通う人びとの住宅都市として脚光を浴びた。田が宅地へと変わり、人口は短い間に大きく膨らんだ。その一方で、南部では地域品種の梅の栽培が続き、砂地ではいもが育つ。農の名残と、宅地の広がりとが、同じ市域に同居してきた。市となった道のりも、この街を映す。この街は、昭和の半ばに四つの村が合併して町となり、その後に市制を施行した。二つの都の中間と、純農村の時代、宅地化、そして梅と砂地の農 ── この街の形は、二つの古い都に挟まれた地が短い間に住宅都市へ転じた、転身の来歴の上に立っている。
出典: 城陽市/京と奈良の中間 (京都府南部、京都市と奈良市のほぼ中間に位置する市・1960年代までは純農村で、近畿圏の人口集中に伴い京都・大阪の住宅都市として宅地化が進んだ 概説) / 城陽市/梅と砂地の農 (南部では梅の栽培が盛んで、地域品種の梅「城州白」が知られる・砂地で育つ甘藷など、砂地を生かした農も営まれる 概説) / 城陽市 (1951年に4村が合併して城陽町が成立し、1972年に市制施行・以後の平成の合併はせず単独存続 概説)
03 · 京と奈良の中間の住宅都市で、急に膨らんだ後に人口を減らす
城陽市の特徴は、純農村から短い間に膨らんだ住宅都市という来歴を抱えながら、いまは人口を減らしている点にある。二〇〇〇年の 84,346 人から二〇二〇年の 74,607 人まで、二〇年で一万人ほどが減った。昭和の宅地化で一斉に移り住んだ世代が、そろって年齢を重ねていることが、人口の減りと高齢化の急な進みの背後にある。六五歳以上の割合が二〇〇〇年の 13.8% から二〇二〇年の 33.6% へと、二〇年で二〇ポイント余りも上がったことは、その表れだ。
その一方で、保育の待機児童は二〇二四年・二〇二五年ともゼロで、子育て世帯の割合は二〇二〇年で 20.1%、粗出生率は二〇二〇年で千人あたり 5.7。財政力指数 0.59 は、自前の税収で歳出の六割弱を賄える水準で、住宅都市らしく税の基盤は比較的厚い。高齢化率が二〇年で二〇ポイント余りも上がったのは、自然な細りではない。短い間に一斉に移り住んだ世代が、そろって年を重ねているからだ。膨らんだ速さが、そのまま年齢の上がる速さになって返ってきている。
04 · 二つの古い都に挟まれた地が、短い間に住宅都市へ転じた
城陽は、固有の機能をいくつも抱えている。一つは、北の京と南の奈良のちょうど中ほどに置かれ、長く田畑が広がっていた、二つの都の中間の純農村という来歴を持つ。もう一つが、近畿の人口集中と交通の便のよさで、田が宅地へ短い間に変わった、住宅都市への転身という性格を抱える。そして、南部に地域品種の梅、砂地にいもを育てる、農の名残という顔を持つ。京と奈良に挟まれた純農村が、近畿の人口集中を受けて短い間に住宅都市へ変わった。それでも南部には、地域品種の梅と砂地のいもが残る。
田を宅地に変えた便のよさと、まだ農を手放さない一隅と。城陽をどちらの顔で読むかは、ここに通おうとする人それぞれの事情で変わってくる。
出典: 城陽市/京と奈良の中間 (京都府南部、京都市と奈良市のほぼ中間に位置する市・1960年代までは純農村で、近畿圏の人口集中に伴い京都・大阪の住宅都市として宅地化が進んだ 概説) / 城陽市/梅と砂地の農 (南部では梅の栽培が盛んで、地域品種の梅「城州白」が知られる・砂地で育つ甘藷など、砂地を生かした農も営まれる 概説) / 城陽市 (1951年に4村が合併して城陽町が成立し、1972年に市制施行・以後の平成の合併はせず単独存続 概説)
05 · Atlas メモ — 宅地化の波は、数十年を置いて高齢化の波になって返る
城陽の数字でまず目を引くのは、高齢化率が二〇年で二〇ポイント余りも上がった、その速さだ。多くの地方の市が、人口の自然な細りで少しずつ年齢を上げていくのに対し、この街は短い間に一斉に膨らんだぶん、その世代が同じ時期にそろって年齢を重ねる。急に膨らんだ街は、急に年齢を上げる。宅地化の波は、数十年を置いて高齢化の波になって返ってくる。同じ構図を私は他の住宅都市でも何度も見てきたが、城陽の高齢化率の上がり方には、それがとりわけくっきり出ている。
もう一つ、ここで考えたいのは、この街の財政力 0.59 が、人口を減らしている市としては比較的厚い、という点だ。これは、住宅都市として一定の税の基盤を抱え続けているからだ、と読める。人口は減っても、住む人の所得や資産が税の基盤を支えるかぎり、財政の体力はすぐには薄くならない。地力と実績を分けて読むこの構えは、城陽の数字を一つだけ取り出しても見えてこない。住宅都市の記号で済ませるか、二つの都に挟まれて宅地に変わった街と見るか。短い間に一斉に膨らんだ世代がそろって年を重ねるいま、財政力〇・五九の厚みは、その世代が支えるあいだのものだ。
出典: 総務省 国勢調査 / 城陽市/京と奈良の中間 (京都府南部、京都市と奈良市のほぼ中間に位置する市・1960年代までは純農村で、近畿圏の人口集中に伴い京都・大阪の住宅都市として宅地化が進んだ 概説) / 城陽市/梅と砂地の農 (南部では梅の栽培が盛んで、地域品種の梅「城州白」が知られる・砂地で育つ甘藷など、砂地を生かした農も営まれる 概説) / 城陽市 (1951年に4村が合併して城陽町が成立し、1972年に市制施行・以後の平成の合併はせず単独存続 概説)
編集メモ: 数値・出典はすべて公的統計が由来です。 文体は Atlas の語り口に揃え、 AI (atlas-handcrafted-reverse-v1 (wave36-kinki 2026-06-05)) が文章の整え方を担当しています。 評価語・予測語 (「狙い目」「魅力的」 等) は意図的に載せていません。 改訂識別子: wave36k_




