この街の湯は、古くから名高かった。江戸を開いた将軍は、子らを連れてこの地に幾日も湯治に訪れ、その湯を絶賛したと伝わる。やがて将軍の家は、この街の湯を樽に詰めて江戸の城まで運ばせ、城にいながらこの地の湯を使うようになった。近代に鉄道が通ると、この街は全国から人が訪れる温泉の保養地となり、新婚の旅や会社の慰安の旅でにぎわった。だが、その繁栄の先で、この街は人口を減らし、住む人の高齢化を深く進めてきた。将軍家が江戸へ湯を運ばせた湯の里の数字は、温泉と保養地という来歴が刻まれた街の記録だ。
静岡県の東部、相模の海に面した急な斜面に開ける市。人口は二〇〇〇年の 42,936 人から、二〇二〇年の 34,208 人へと、大きく減ってきた。私 (Atlas) がここで読みたいのは「温泉のまち」 という記号ではなく、将軍家が江戸へ湯を運ばせた湯の里と、温泉の保養地という来歴が、現在の人口や財政にどう翻訳されているか、という因果の筋道だ。
01 · いまの熱海市を、数字で見る
直近の国勢調査で人口は約三万四千人 (二〇二〇年 34,208 人)。その推移は、深い減少だ。二〇〇〇年の 42,936 人から、二〇〇五年の 41,202 人、二〇一〇年の 39,611 人、二〇一五年の 37,544 人、そして二〇二〇年の 34,208 人へと、二〇年で九千人近くが減った。
中身を見ると、温泉の保養地として知られた街が、深く高齢化している姿がはっきり出る。六五歳以上の割合は二〇〇〇年の 27.1% から二〇二〇年の 47.9% へと上がり、住む人の半分近くが六五歳以上という、全国でも際立って高い水準に達した。子育て世帯の割合は二〇二〇年で 8.4% と、ひときわ低い。保育の待機児童は二〇二四年・二〇二五年ともゼロ。財政力指数は二〇二三年度に 0.84 と、自前の税収で歳出の八割あまりを賄える、人口規模のわりに高い水準にある。将軍家が江戸へ湯を運ばせた湯の里が、人口を大きく減らし、住む人の高齢化を深く進める姿が数字に出ている。なぜこの形なのかは、温泉と保養地の来歴を遡らないと読めない。
出典: 総務省 国勢調査 / 総務省 地方財政状況調査 (財政力指数) / こども家庭庁 保育所等関連状況取りまとめ / 国土交通省 不動産情報ライブラリ
02 · 将軍が絶賛した湯・江戸へ運ばれた湯・鉄道が呼んだ保養地 — 数字の背後にある来歴
この街の骨格は、古くから名高い湯と、近代の鉄道が呼び込んだ保養地という、温泉に結びついた来歴によって据えられている。古い層は、湯である。相模の海に面したこの急な斜面の地には、古くから名高い湯が湧いていた。江戸を開いた将軍は、子らを連れてこの地に幾日も湯治に訪れ、その湯を絶賛したと伝わる。やがて将軍の家は、この街の湯を樽に詰めて、江戸の城まで運ばせるようになり、城にいながらこの地の湯を使った。長い年月のあいだに何千もの樽が江戸へ運ばれたという記録も残る。海辺に湧くこの名高い湯が、街の古い土台となった。
この湯の上に、近代の保養地が築かれた。近代に鉄道が通ると、この街は、大都市から日帰りや泊まりで気軽に訪れられる温泉の地となり、全国から人が集まる保養地へと育った。新婚の旅や、会社の慰安の旅で、街は多くの人でにぎわい、海を見下ろす斜面には旅館やホテルが立ち並んだ。市となった道のりも、この街を映す。この地は昭和の十年代、温泉の保養地として知られるなかで市となった。将軍が絶賛し、江戸の城まで運ばれた湯と、鉄道が呼び込んだ保養地 ── この街の形は、相模の海に面した急な斜面が抱えた、温泉の来歴の上に立っている。
出典: 熱海ロマン紀行「徳川家康と熱海温泉」 (1604 徳川家康が 7 日間湯治・四代将軍以降 湯を樽で江戸城へ運ぶ「御汲湯」 概説) / 熱海市公式 (鉄道開通後 全国有数の温泉観光地・保養地へ・1937 市制 概説)
03 · 温泉の保養地で、人口を大きく減らし住む人の高齢化を深める
熱海市の特徴は、温泉の保養地という来歴を抱えながら、人口を大きく減らし、住む人の高齢化を全国でも際立って深く進めている点にある。二〇〇〇年の 42,936 人から二〇二〇年の 34,208 人まで、二〇年で九千人近くが減った。海を見下ろす急な斜面に旅館やホテルが立ち並ぶこの街は、訪れる人をもてなす保養地としての性格が強く、若い世代が長く住み、子を育て、働き続ける場としての厚みは、必ずしも大きくなかったと読める。加えて、温泉の保養地としての落ち着いた環境を求めて、年を重ねた人が移り住む先ともなってきた。訪れる保養地でありながら、若い世代の暮らしの場としての厚みが薄いという性格が、人口の減少と、住む人の深い高齢化に表れている。六五歳以上の割合が二〇二〇年で 47.9% と住む人の半分近くに達し、子育て世帯の割合が 8.4% とひときわ低いのも、その人口構成の表れだ。
その一方で、保育の待機児童は二〇二四年・二〇二五年ともゼロだ。財政力指数 0.84 は、自前の税収で歳出の八割あまりを賄える、人口規模のわりに高い水準にある。これは、温泉の保養地として、宿泊や観光に関わる産業や、別荘やリゾートの資産がこの街に税源をなしていることを映していると読める。住む人は減り、高齢化は深く進むなかでも、訪れる人と資産が税源を支えるという、保養地に固有の財政の形がここにある。将軍家が江戸へ湯を運ばせた湯の里は、いまは人口を大きく減らし、住む人の高齢化を深く進めている。人口は大きく減り、高齢化は半分近く、それでも財政の体力は規模のわりに高い。住む人が減るほど数字が痩せるはずの街で財政が保たれるのは、訪れる人と別荘の資産が、住む人とは別に税源を支えているからだ。
04 · 将軍が絶賛し、江戸の城まで湯が運ばれた、温泉の保養地
熱海は、固有の機能をいくつも抱えている。一つは、相模の海に面した斜面に古くから名高い湯が湧き、江戸を開いた将軍が絶賛し、その湯が樽で江戸の城まで運ばれた地という来歴を持つ。もう一つが、近代の鉄道が大都市から人を呼び込み、新婚の旅や慰安の旅でにぎわった、全国有数の温泉の保養地という性格で、海を見下ろす斜面に旅館やホテルを抱える。そして、相模の海に面した急な斜面という地形が、海辺に湧く湯を、そして大都市からの近さを、この地の温泉の繁栄に結びつけた。
熱海は、将軍が絶賛し、江戸の城まで湯が運ばれた、温泉の保養地だ。将軍が湯治に訪れた名高い湯から、江戸の城まで運ばれた湯、そして鉄道が呼び込んだ保養地まで ── 「相模の海に面し、大都市から近い急な斜面に開ける」 という地理が、名高い湯を呼び、保養地を呼んで、街の骨格を据えた。将軍が湯治に通った頃、この急斜面は湯けむりとともに栄えた。いまそこに住む人の半分近くが六五歳を超え、その同じ斜面を、別荘とリゾートの資産が支えている。盛りの相手が、湯治客から訪問客と資産へと移った。
出典: 熱海ロマン紀行「徳川家康と熱海温泉」 (1604 徳川家康が 7 日間湯治・四代将軍以降 湯を樽で江戸城へ運ぶ「御汲湯」 概説) / 熱海市公式 (鉄道開通後 全国有数の温泉観光地・保養地へ・1937 市制 概説)
05 · Atlas メモ — 訪れる人と住む人で、熱海はまるで別の街に分かれる
熱海の数字を並べると、二〇年で九千人近く減った人口・住む人の半分近くという高齢化率 47.9%・子育て世帯の割合 8.4%・財政力 0.84 と、深く高齢化した保養地の指標が並ぶ。だが私 (Atlas) が会計の目でこの街を読むとき、引き寄せられるのは、この街の「訪れる人の数」 と「住む人の数」 が、まったく別の動きをしている点だ。温泉の保養地として、この街には今も多くの人が訪れ、宿泊や観光に関わる産業や、別荘やリゾートの資産が、人口規模のわりに高い財政力指数 0.84 を支えている。だが、その同じ街で、住む人は減り続け、六五歳以上の割合は半分近くに達した。
江戸の将軍が湯治に訪れ、湯を江戸の城まで運ばせた頃から、この街の湯は、そこに住むためというより、訪れて癒されるためのものだった。近代に鉄道が呼び込んだ保養地としての繁栄も、訪れる人のための街という性格を強めた。訪れて癒される街であり続けたことが、若い世代の暮らしの場としての厚みを薄くし、年を重ねた人の移り住む先となって、住む人の高齢化を深めた。にぎわう街と、痩せていく定住の街とが、同じ斜面の上に重なっている ── 財政力 0.84 を支えているのは訪れる人の財布であって、住む半分近くの高齢者の暮らしではない。この二つの数の食い違いが、訪れる人にとっての熱海と、住む人にとっての熱海とを、まるで別の街に分けている。どちらの熱海を見ているのかで、同じ数字の手ざわりは変わる。
出典: 総務省 国勢調査 / 熱海ロマン紀行「徳川家康と熱海温泉」 (1604 徳川家康が 7 日間湯治・四代将軍以降 湯を樽で江戸城へ運ぶ「御汲湯」 概説) / 熱海市公式 (鉄道開通後 全国有数の温泉観光地・保養地へ・1937 市制 概説)
編集メモ: 数値・出典はすべて公的統計が由来です。 文体は Atlas の語り口に揃え、 AI (atlas-handcrafted-reverse-v1 (Daiki 2026-06-02)) が文章の整え方を担当しています。 評価語・予測語 (「狙い目」「魅力的」 等) は意図的に載せていません。 改訂識別子: wave17_8




