この街の名は、もともと一頭の馬が足を折ったという言い伝えにちなむ古い村の名であった。それが昭和の初め、近くにつくられた高級なゴルフ場の縁で、ある宮家の名から同じ読みの漢字を譲り受け、いまの名に改められた。やがて街には軍の学校が移り、戦後はその跡地が外国の軍の基地となって、街は三〇年あまり基地の町として歩んだ。基地が返されたのち、街は都心へ通う人々の住む住宅地となり、人口を一貫して増やしてきた。朝霞市の数字は、村の改称と基地という来歴が刻まれた街の記録だ。
埼玉県の南部、武蔵野の台地が荒川の低地へと下る地に開ける市。人口は二〇〇〇年の 119,712 人から二〇二〇年の 141,083 人へと、一貫して増えてきた。私 (Atlas) がここで読みたいのは「都心近郊の住宅地」 という記号ではなく、村の改称と基地の町という来歴が、現在の人口や財政にどう翻訳されているか、という因果の筋道だ。
01 · いまの朝霞市を、数字で見る
直近の国勢調査で人口は約一四万一千人 (二〇二〇年 141,083 人)。その推移は、一貫した増加だ。二〇〇〇年の 119,712 人から、二〇〇五年の 124,393 人、二〇一〇年の 129,691 人、二〇一五年の 136,299 人、そして二〇二〇年の 141,083 人へと、二〇年で二万一千人あまりが増えた。
中身を見ると、都心へ通う人々の住む台地の市らしい姿が、際立った形で出る。六五歳以上の割合は二〇〇〇年の 10.5% から二〇二〇年の 19.5% へと上がったが、四割に迫る地方都市も多いなかで、二割に届かず、強い若さを残す。子育て世帯の割合は二〇二〇年で 22.6%、保育の待機児童は二〇二四年に一七人、二〇二五年に九人と、近年は減ってきたが残る。財政力指数は二〇二三年度に 0.97 と、自前の税収で歳出のほぼすべてを賄える、高い水準にある。宮家の名を負った街が、人口を一貫して増やしながら強い若さを残す姿が数字に出ている。なぜこの形なのかは、村の改称と基地の来歴を遡らないと読めない。
出典: 総務省 国勢調査 / 総務省 地方財政状況調査 (財政力指数) / こども家庭庁 保育所等関連状況取りまとめ / 国土交通省 不動産情報ライブラリ
02 · 馬の言い伝えの村・宮家ゆかりの改称・軍の学校と基地・都心へ通う鉄道 — 数字の背後にある来歴
この街の骨格は、宮家の名を負って改められた村の名と、その地に置かれた軍の学校から基地への流れ、そして都心へ通う鉄道によって据えられている。始まりの層は、村の改称である。この街はもともと、一頭の馬が足を折ったという古い言い伝えにちなむ村の名で呼ばれていた。昭和の初め、近くに高級なゴルフ場がつくられ、その名誉の役にあった宮家との縁から、村は町となるにあたって、その宮家の名と同じ読みの漢字を譲り受け、いまの名に改められた。古い言い伝えの村の名が、宮家ゆかりの新しい名に替わった、というのが、この街の名の始まりである。
この改称の上に、軍の歴史が重なった。戦時、この街には、軍の士官を養成する学校などの軍事施設が移ってきた。戦争が終わると、これらの施設には外国の軍が進駐し、この街は基地の町として、その後三〇年あまりを歩むこととなった。基地が返されたのち、その広い跡地は、街の新たな土地として用いられた。鉄道もこの街を変えた。武蔵野を走る環状の鉄道の駅と、都心へ向かう私鉄の駅が、互いに乗り換えのできる近さに開かれ、この街は都心へ通いやすい住宅地となっていった。市となった道のりも、この街を映す。この地は昭和の四〇年代に、県下で二七番目の市となった。馬の言い伝えの村と、宮家ゆかりの改称、軍の学校と基地、そして都心へ通う鉄道 ── この街の形は、武蔵野の台地が抱えた、村の改称と基地の来歴の上に立っている。
出典: 朝霞市「朝霞市の名の由来」 (膝折村が町制施行と同時に改称・東京ゴルフ倶楽部名誉会長であった朝香宮鳩彦王の名から同音の「朝霞」の使用許諾を得た 概説) / 朝霞市「ふるさと朝霞の歴史(10) 朝霞市の誕生」 (戦時に陸軍予科士官学校等の軍事施設・戦後 米軍進駐でキャンプ朝霞〔キャンプ・ドレイク〕の基地の町・1967 県下27番目に市制 概説) / キャンプ・ドレイク (戦後 朝霞に置かれた在日米軍基地・約30年の基地の町・1973 武蔵野線北朝霞/1974 東武東上線朝霞台の開設 概説)
03 · 基地が返された台地で、人口を一貫して増やし強い若さを残す
朝霞市の特徴は、基地の町という来歴を抱えながら、人口を一貫して増やし、強い若さを残している点にある。二〇〇〇年の 119,712 人から二〇二〇年の 141,083 人まで、二〇年で二万一千人あまりが増えた。多くの地方都市が人口を減らすなか、この街が増え続けてきた背後には、埼玉県の南部という位置で都心へ通いやすく、基地が返されて広がった台地に住宅が築かれ、子を育てる若い世帯が次々に移り住んできたことがあると読める。六五歳以上の割合が二〇二〇年で 19.5% と二割に届かず、強い若さを残しているのは、その表れだ。
その一方で、保育の待機児童は二〇二四年に一七人、二〇二五年に九人と、近年は減ってきたが残る。若い世帯が次々に移り住むぶん、保育の需要が底堅いことの表れだと読める。財政力指数 0.97 は、自前の税収で歳出のほぼすべてを賄える水準で、高い。都心へ通う多くの世帯の所得が、税源を高く支えていると読める。人口は一貫して増え、高齢化は二割に届かず、財政の体力は高め。三つの数字は別々の話に見えて、子を育てる若い世帯が次々に台地へ移り住むという一つの流れが、いずれにも同じ向きの跡を残している。
04 · 譲り受けた名と、返された土地
朝霞は、武蔵野の台地が荒川の低地へ下る地に開けた街として、固有の機能をいくつも抱えている。一つは、馬の言い伝えの村が、近くのゴルフ場の縁から宮家の名を負って改称した来歴だ。もう一つが、軍の学校から戦後の基地へと続き、その基地が返されたのちに広い跡地を抱え、都心へ通う住宅地となった性格を持つ。そして、互いに乗り換えのできる二つの鉄道の駅が、都心へ通う住宅地を、この台地に呼び寄せた。
朝霞は、宮家の名を負った街が、基地の跡に住宅を抱えた街だ。馬の言い伝えの村から、宮家ゆかりの改称、軍の学校と基地、そして都心へ通う住宅地まで ── 「武蔵野の台地が荒川の低地へと下る」 という地理と二つの鉄道の近さが、宮家の名を負った村を、基地の跡の住宅地に変えた。名は外からの縁で譲り受け、土地は軍の手から返された。借りものの名と返却された土地の上に、いまの朝霞の若さが立っている。
出典: 朝霞市「朝霞市の名の由来」 (膝折村が町制施行と同時に改称・東京ゴルフ倶楽部名誉会長であった朝香宮鳩彦王の名から同音の「朝霞」の使用許諾を得た 概説) / 朝霞市「ふるさと朝霞の歴史(10) 朝霞市の誕生」 (戦時に陸軍予科士官学校等の軍事施設・戦後 米軍進駐でキャンプ朝霞〔キャンプ・ドレイク〕の基地の町・1967 県下27番目に市制 概説) / キャンプ・ドレイク (戦後 朝霞に置かれた在日米軍基地・約30年の基地の町・1973 武蔵野線北朝霞/1974 東武東上線朝霞台の開設 概説)
05 · Atlas メモ — 譲り受けた名と、返された土地の上の若さ
朝霞の数字を並べると、二〇年で二万一千人あまり増えた人口・高齢化率 19.5%・子育て世帯の割合 22.6%・財政力 0.97 と、都心へ通う人々の住む台地の市として強い若さを残す指標が並ぶ。長く帳簿の数字の裏を読んできた私 (Atlas) が読みたいのは、この街の名が「譲り受けたもの」 である、という事実だ。馬の足を折ったという古い言い伝えにちなむ村の名が、近くのゴルフ場の縁から、ある宮家の名と同じ読みの漢字を譲り受けて、いまの名に改められた。地名が、その地の地形や産業ではなく、外からの縁によって付け替えられた、という来歴は、この街の名のなりたちをよく説明する。
もう一つ考えたいのは、この街の若さが、基地の返還という出来事と結びついている点だ。軍の学校から戦後の基地へと続いた広い土地が、三〇年あまりののちに返され、その跡地が街の新たな住宅の地となった。都心へ通いやすい位置に、まとまった広い土地が返されたことが、子を育てる若い世帯を次々に迎え入れる受け皿となり、人口を一貫して押し上げ、強い若さを保たせた、という筋道は、この街の数字とよく合う。名は外からの縁で譲り受け、土地は軍の手から返された。借りものの名と、返ってきた土地。その二つの上に、二割に届かない若さで人口を増やしつづける、いまの朝霞が立っている。
出典: 総務省 国勢調査 / 朝霞市「朝霞市の名の由来」 (膝折村が町制施行と同時に改称・東京ゴルフ倶楽部名誉会長であった朝香宮鳩彦王の名から同音の「朝霞」の使用許諾を得た 概説) / 朝霞市「ふるさと朝霞の歴史(10) 朝霞市の誕生」 (戦時に陸軍予科士官学校等の軍事施設・戦後 米軍進駐でキャンプ朝霞〔キャンプ・ドレイク〕の基地の町・1967 県下27番目に市制 概説) / キャンプ・ドレイク (戦後 朝霞に置かれた在日米軍基地・約30年の基地の町・1973 武蔵野線北朝霞/1974 東武東上線朝霞台の開設 概説)
編集メモ: 数値・出典はすべて公的統計が由来です。 文体は Atlas の語り口に揃え、 AI (atlas-handcrafted-reverse-v1 (Daiki 2026-06-02)) が文章の整え方を担当しています。 評価語・予測語 (「狙い目」「魅力的」 等) は意図的に載せていません。 改訂識別子: wave19_9





