この街にある古墳の地の名は、いまの県の名の生まれた場所だと伝わる。万葉の歌にもその名がよまれ、古い記録にも県の名のもととなる郡の名が残る。同じこの街には、戦国の世に大軍の水攻めに耐えたと伝わる城があり、その城下では、暮らしの苦しい下級の武士たちの内職として、足の指の分かれた履物をつくる仕事が始まった。やがてその履物は、最も盛んな時期には国でつくられるものの八割をこの街が占めるまでになった。古墳と城下と内職を重ねたこの街は、人口を減らしてきた。行田市の数字は、県の名が生まれ、足袋を国に供した街の来歴が刻まれた記録だ。
埼玉県の北部、利根川と荒川に挟まれた低地に開ける市。人口は二〇〇〇年の 86,308 人から、二〇二〇年の 78,617 人へと、緩やかに減ってきた。私 (Atlas) がここで読みたいのは「足袋のまち」 という記号ではなく、古墳と城下と内職という来歴が、現在の人口や財政にどう翻訳されているか、という因果の筋道だ。
01 · 行田市のいまを、数字でたどる
直近の国勢調査で人口は約七万九千人 (二〇二〇年 78,617 人)。その推移は、緩やかな減少だ。二〇〇〇年の 86,308 人から、二〇〇五年の 84,720 人、二〇一〇年の 85,786 人、二〇一五年の 82,113 人、そして二〇二〇年の 78,617 人へと、二〇年で八千人ほどが減った。
中身を見ると、関東平野の北の低地にある街らしい姿が出る。六五歳以上の割合は二〇〇〇年の 15.8% から二〇二〇年の 31.8% へと、二〇年で二倍ほどに上がり、三割を超えた。子育て世帯の割合は二〇二〇年で 19.0%、保育の待機児童は二〇二四年・二〇二五年ともゼロ。財政力指数は二〇二三年度に 0.66 と、自前の税収で歳出の六割半ばほどを賄える、中小都市としては中位の水準にある。県の名が生まれ、足袋を国に供した街が、人口を緩やかに減らしながら高齢化を深める姿が数字に出ている。なぜこの形なのかは、古墳と城下と内職の来歴を遡らないと読めない。
出典: 総務省 国勢調査 / 総務省 地方財政状況調査 (財政力指数) / こども家庭庁 保育所等関連状況取りまとめ / 国土交通省 不動産情報ライブラリ
02 · 県の名が生まれた古墳の地・水攻めに耐えた城・足袋の内職 — 数字の背後にある来歴
この街の骨格は、県の名の生まれた古墳の地、戦国の城下、そして城下に根づいた足袋の内職という、いくつもの層が重なって据えられている。最も古い層は、古墳である。この街には、大型の円墳と、武蔵の国で最も大きいとされる前方後円墳を含む九基の大型の古墳が群れをなして残る。五世紀の後半から七世紀の初めにかけてつくられたこの古墳の地の名は、いまの県の名の生まれた場所だと伝わり、万葉の歌にもその名がよまれている。古い時代から、この地が一帯の中心であったことを、古墳の群れは物語る。
次の層は、城下である。室町の世にこの地に城が築かれ、戦国の世には、この地の武士団がその城を本拠とした。豊臣の天下統一の戦いのなかで、この城は大軍に攻められたが、低地に水を引いた城は容易には落ちず、水攻めに耐えたと伝わる。江戸の時代には、この城を中心とした藩の城下町となった。そして、その城下に根づいたのが、足の指の分かれた履物をつくる仕事である。江戸の半ば、暮らしの苦しい下級の武士たちの内職として始まったこの仕事は、明治を迎えて機械化され、街は一大産地となった。最も盛んな時期には、この街でつくられる履物が、国でつくられるものの八割を占めるまでになり、街には製品を蔵に納める建物が立ち並んだ。県の名が生まれた古墳の地に、水攻めに耐えた城が築かれ、その城下に足袋の内職が根づいた ── この街の形は、関東平野の北の低地が抱えた、いくつもの来歴の上に立っている。
出典: 行田市 埼玉古墳群 (「埼玉(さきたま)」=県名発祥の地・5 世紀後半〜7 世紀初の大型古墳群 概説) / 日本遺産「足袋蔵のまち行田」 (下級武士の内職に始まり明治に機械化・1938 最盛期に全国シェア約 8 割 概説)
03 · 足袋を国に供した街で、人口を緩やかに減らす
行田市の特徴は、足袋の産地という来歴を抱えながら、人口を緩やかに減らし、高齢化を深めている点にある。二〇〇〇年の 86,308 人から二〇二〇年の 78,617 人まで、二〇年で八千人ほどが減った。最も盛んな時期に国の八割の履物をつくった足袋の産業は、人々の履物が洋風のものへと移るにつれて、しだいに需要を減らしていった。街を支えた足袋の産業の縮みとともに、また大都市から少し離れた低地という立地のもとで、若い世代の流入が人口の減少を補いきらず、街は緩やかに人口を減らしてきたと読める。六五歳以上の割合が二〇二〇年で 31.8% と三割を超えたのも、その人口構成の表れだ。
その一方で、保育の待機児童は二〇二四年・二〇二五年ともゼロだ。財政力指数 0.66 は、自前の税収で歳出の六割半ばほどを賄える水準で、中小都市としては中位にある。足袋から移っていった衣料や食品などの産業と、住む人の所得が、税源を中位に支えていると読める。縮む人口、深まる高齢化、それでも崩れない中位の財政 ── 足袋を国に供した関東平野の北の街は、この三つを同時に抱えている。どれか一本の線だけを追っても、街の表情は浮かんでこない。
04 · 県の名が生まれ、足袋を国に供した街
行田は、いくつもの機能を一つの低地に抱えている。一つは、武蔵の国で最も大きいとされる前方後円墳を含む古墳の群れが残り、その地の名が県の名の生まれた場所だと伝わる古層を持つ。もう一つが、戦国の世に大軍の水攻めに耐えたと伝わる城と、その城下に根づいた足袋の内職という来歴で、最も盛んな時期に国の八割の履物をつくった産地という性格を残す。そして、利根川と荒川に挟まれた低地という立地が、古墳の地を、城を、そして足袋の産地を、ここに重ねた。
県の名の生まれた古墳の地から、水攻めに耐えた城、そして国の八割の履物をつくった足袋の内職へ ── 「利根川と荒川に挟まれた関東平野の北の低地に開ける」 という条件が、古墳の地を呼び、城を呼び、足袋の産地を呼んだ。埼玉県の北部というこの一点に、古墳と城下と内職という三つの時代の層が、順に積もっていった。県全体の名の起こりが、ここにある。
出典: 行田市 埼玉古墳群 (「埼玉(さきたま)」=県名発祥の地・5 世紀後半〜7 世紀初の大型古墳群 概説) / 行田市 (1949 忍市として市制施行・即時改称し行田市・忍城/さきたま古墳群/足袋 概説)
05 · Atlas メモ — 県名の起こりは、人口を減らすこの古墳の地にある
行田の数字を並べると、緩やかに減る人口・高齢化率 31.8%・子育て世帯の割合 19.0%・財政力 0.66 と、関東平野の北の低地にある街の指標が並ぶ。一つの稼ぎ頭に依存した収益構造を見たときの目で、私 (Atlas) がここで読みたいのは、この街がかつて「国の八割の履物」 をつくった産地だった点と、その産業の縮みとの、つながりだ。一つの製品で国の大きな割合を占めた産地は、その製品への需要が時代とともに移ろえば、深い影響を受ける。人々の履物が洋風のものへと移るにつれて、足袋の需要は減り、街を支えた産業は縮んでいった。一つの製品に厚く支えられた産地が、その製品の役割が移ろうなかで、緩やかに人口を減らしていく ── 行田の人口減は、その筋道を映している。
もう一つ、足の下に深い来歴を抱えている点を見ておきたい。古墳の群れが残るこの地の名は、いまの県の名のもとになったと伝わる。意外なことに、埼玉という県名の由来は、県庁所在地でも最大の都市でもなく、人口を緩やかに減らすこの低地の古墳の地から来ている。県全体の名の起こりが、足袋の内職で食いつないだ城下の片隅にある ── そこを起点に読むと、街の見え方が一度ひっくり返る。県の名を生んだ古墳、水攻めに耐えた城、国の八割を織った足袋。華やかな来歴を三つ重ねた街が、いまは静かに人口を減らす。栄えの大きさと現在の規模が釣り合わないこのちぐはぐさこそ、一つの産業に深く根を張った土地が、その産業を失ったあとにたどる典型の姿だ。
出典: 総務省 国勢調査 / 行田市 埼玉古墳群 (「埼玉(さきたま)」=県名発祥の地・5 世紀後半〜7 世紀初の大型古墳群 概説) / 日本遺産「足袋蔵のまち行田」 (下級武士の内職に始まり明治に機械化・1938 最盛期に全国シェア約 8 割 概説)
編集メモ: 数値・出典はすべて公的統計が由来です。 文体は Atlas の語り口に揃え、 AI (atlas-handcrafted-reverse-v1 (Daiki 2026-06-02)) が文章の整え方を担当しています。 評価語・予測語 (「狙い目」「魅力的」 等) は意図的に載せていません。 改訂識別子: wave16_c

![かつて足袋工場だったイサミコーポレーションスクール工場[12]](https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/76/Gyoda_Saitama_Isami_Corp_School_Factory_Appearance_201712.jpg)