この谷の地には、三百年あまり前に建てられた孔子の廟が、いまも静かに立っている。藩から二度の所替えを受けて石高を減らされ、財政の苦しいなかで、この地を治めた一族の当主は、政を行うには学びが要ると考え、私財を割いて孔子を祀る廟を建てた。春と秋には、孔子の像に供物を捧げる古い儀礼が、三百年あまり絶えることなく続く。近代には、この谷は石炭を掘る地ともなった。孔子の廟を守る谷の地であるこの地は、平成の世の合併に加わらず、単独で歩みながら、人口を大きく減らしてきた。多久市の数字は、学びの来歴と単独の歩みという来歴が刻まれた街の記録だ。
佐賀県の中央部、盆地に開ける市。人口は二〇〇〇年の 23,949 人から二〇二〇年の 18,295 人へと、大きく減ってきた。この市は平成の合併を経ず、単独で歩んできたため、近年の人口の推移に合併由来の段差はない。私 (Atlas) がここで読みたいのは「県央の市」 という記号ではなく、学びの来歴と単独の歩みという来歴が、現在の人口や財政にどう翻訳されているか、という因果の筋道だ。
01 · いまの多久市を、数字で見る
直近の国勢調査で人口は約一万八千人 (二〇二〇年 18,295 人)。この市は平成の合併を経ず単独で歩んできたため、近年の人口の推移に合併由来の段差はない。二〇〇〇年の 23,949 人から、二〇〇五年の 22,739 人、二〇一〇年の 21,404 人、二〇一五年の 19,749 人、二〇二〇年の 18,295 人へと、二〇年で五千人あまりが減ってきた。
中身を見ると、炭の世の後を歩む谷の市が年齢を上げる姿が出る。六五歳以上の割合は二〇一五年の 31.9% から二〇二〇年の 36.9% へと上がり、三割を大きく超えた。子育て世帯の割合は二〇二〇年で 20.3%、粗出生率は二〇二〇年で千人あたり 5.7。保育の待機児童は二〇二四年・二〇二五年ともゼロ。財政力指数は二〇二三年度に 0.35 と、自前の税収では歳出の三割あまりしか賄えず、地方交付税に頼る度合いの大きい水準にある。孔子の廟を守る谷の地が、合併を経ず単独のまま人口を大きく減らす姿が数字に出ている。なぜこの形なのかは、学びの廟と炭鉱の谷と単独の歩みの来歴を遡らないと読めない。
出典: 総務省 国勢調査 / 総務省 地方財政状況調査 (財政力指数) / こども家庭庁 保育所等関連状況取りまとめ / 国土交通省 不動産情報ライブラリ
02 · 盆地の地・藩主の建てた孔子の廟・炭鉱の谷・単独の歩み — 数字の背後にある来歴
多久という街は、佐賀県の中央部の盆地と、藩主の建てた孔子の廟、近代の炭鉱の谷、そして単独の歩みの上にある。始まりの層は、盆地の地である。この地は、山に囲まれた盆地に開ける。山に囲まれたこの盆地が、この街の土台であった。
この盆地を治めた一族が、学びの廟を建てた。この地は、佐賀藩の家臣であった一族の所領で、藩からの二度の所替えによって石高を減らされ、財政が苦しかった。それでもこの地を治めた当主は、政を行うには学びが要ると考え、私財を割いて孔子を祀る廟を建てた。この廟は、後の世に、各地の孔子廟のなかでも指折りの一つに数えられた。春と秋には、孔子の像に供物を捧げる古い儀礼が、三百年あまり絶えることなく続く。近代には、この盆地は石炭を掘る地ともなった。市となった道のりも、この街を映す。この街は、昭和の半ばに周りの町村と一つになって市となったが、平成の世の合併には加わらず、単独で歩んできた。盆地の地と、藩主の建てた孔子の廟、炭鉱の谷、そして単独の歩み ── 石高を減らされた藩主が学びを重んじた盆地が、これらの来歴を刻んできた。
出典: 多久市/多久聖廟 (1708年に多久氏4代の多久茂文が建てた孔子廟で、足利学校・閑谷学校とともに日本三大孔子廟の一つ・国重要文化財・春秋の釈菜は300年以上続く 概説) / 多久市/多久氏 (佐賀藩鍋島家の家臣 多久氏の所領で、藩からの二度の所替えで石高を減らされ財政が逼迫するなかで教育を重んじ聖廟を建てた・近代は炭鉱の谷 概説) / 多久市 (1954年に多久町ほかが合併し市制・佐賀県中央部の盆地・平成の合併はせず単独存続 概説)
03 · 孔子の廟を守る谷の地で、単独のまま人口を大きく減らす
多久市の特徴は、学びの廟という来歴を抱えながら、合併を経ず単独で、人口を大きく減らしている点にある。二〇〇〇年の 23,949 人から二〇二〇年の 18,295 人まで、二〇年で五千人あまりが減った。三百年あまり前の孔子の廟を守るこの盆地でも、近代に栄えた炭鉱の閉山と、若い世代の都市への流出とが重なって、街全体の年齢が上がってきたと読める。六五歳以上の割合が二〇二〇年で 36.9% と三割を大きく超えたことは、その表れだ。
その一方で、保育の待機児童は二〇二四年・二〇二五年ともゼロで、子育て世帯の割合は二〇二〇年で 20.3%、粗出生率は二〇二〇年で千人あたり 5.7。財政力指数 0.35 は、自前の税収では歳出の三割あまりしか賄えない水準で、炭の世の後を歩む盆地の地に共通して見られる、地方交付税に頼る度合いの大きさを示している。孔子の廟を守る谷の地は、いまは合併を経ず単独のまま、人口を大きく減らしながら歩んでいる。人口は二〇年で五千人あまり減り、高齢化は三割を大きく超え、財政の体力は税収だけでは薄い。だが待機児童はゼロで、三百年あまり続く廟が残る。減る指標と残るものとが、炭の世の後を歩む盆地で同時に立っている。数字を一本だけ取り出しても、この同居は読めない。
04 · 石高を減らされた藩主が、盆地に学びの廟を建てた街
多久には、盆地という一つの地形から派生した来歴が重なっている。一つは、佐賀県の中央部で山に囲まれた、盆地という来歴を持つ。もう一つが、藩からの二度の所替えで石高を減らされた一族の当主が、財政の苦しいなかで私財を割いて孔子を祀る廟を建て、三百年あまり供物を捧げる儀礼を続けてきた、学びの廟としての性格を抱える。そして、近代に石炭を掘る地ともなった、炭鉱の谷という顔を持つ。山に囲まれた盆地が、学びの廟を生み、近代には炭鉱の谷を抱えた。
多久は、石高を減らされた藩主が、盆地に学びの廟を建てた街だ。盆地という地形から、藩主の建てた孔子の廟、炭鉱の谷、そして単独の歩みまで ── 「山に囲まれた盆地」 という一つの地形に、財政の苦しい藩主の学びへの選択と、近代の炭鉱の記憶とが折り重なっている。佐賀県の中央部にあるこの盆地で、学びの廟は三百年あまり、炭鉱が去ったのちも残った。
出典: 多久市/多久聖廟 (1708年に多久氏4代の多久茂文が建てた孔子廟で、足利学校・閑谷学校とともに日本三大孔子廟の一つ・国重要文化財・春秋の釈菜は300年以上続く 概説) / 多久市/多久氏 (佐賀藩鍋島家の家臣 多久氏の所領で、藩からの二度の所替えで石高を減らされ財政が逼迫するなかで教育を重んじ聖廟を建てた・近代は炭鉱の谷 概説) / 多久市 (1954年に多久町ほかが合併し市制・佐賀県中央部の盆地・平成の合併はせず単独存続 概説)
05 · Atlas メモ — 台所が苦しいなかで残した廟が、世紀を越えて立っている
多久の数字を並べると、単独のまま大きく減る人口・高齢化率 36.9%・子育て世帯の割合 20.3%・財政力 0.35 と、炭の世の後を歩む谷の市の指標が並ぶ。だが帳簿を読む目で読みたいのは、この街が「藩からの所替えで石高を減らされ、財政が苦しいなかで、当主が私財を割いて学びの廟を建てた」 という、来歴の選択だ。財政の苦しいなかで、目の前の出費を抑えるのではなく、政の土台として学びを重んじた。財政が苦しいときに何を残すかという選択が、三百年あまり続く廟として、いまも形を保っている、という連鎖は、この街の数字には表れない厚みを示す。
もう一つ考えたいのは、この街が「学びの廟という固有の財産を抱えながら、人口を大きく減らしている」 という点だ。三百年あまり続く儀礼と、指折りの孔子廟という文化の厚みは、人口の数とは別の物差しで測られる財産である。文化の厚みは、人口の増減とは独立して、その地に残り続ける ── この厚みは、人口や財政の数字を一本見ただけでは掴めない。意外なのは、財政が苦しい街ほど目の前の出費を切り詰めそうなものを、ここでは逆に、当主が私財を割いて学びの廟を建てたという点だ。ここから先へ私は踏み込まないが、その廟は三百年あまりを越えて残り、いまも人口や財政の数字には表れない厚みをこの盆地に与えている。目の前の出費に追われる台所のなかで残したものが、世紀を越えていまも立っている。
出典: 総務省 国勢調査 / 多久市/多久聖廟 (1708年に多久氏4代の多久茂文が建てた孔子廟で、足利学校・閑谷学校とともに日本三大孔子廟の一つ・国重要文化財・春秋の釈菜は300年以上続く 概説) / 多久市/多久氏 (佐賀藩鍋島家の家臣 多久氏の所領で、藩からの二度の所替えで石高を減らされ財政が逼迫するなかで教育を重んじ聖廟を建てた・近代は炭鉱の谷 概説) / 多久市 (1954年に多久町ほかが合併し市制・佐賀県中央部の盆地・平成の合併はせず単独存続 概説)
編集メモ: 数値・出典はすべて公的統計が由来です。 文体は Atlas の語り口に揃え、 AI (atlas-handcrafted-reverse-v1 (wave34-west 2026-06-04)) が文章の整え方を担当しています。 評価語・予測語 (「狙い目」「魅力的」 等) は意図的に載せていません。 改訂識別子: wave34w_




