この街の南の端に、海へ突き出た岬がある。その岬の草原には、いまも馬が群れている。だれかが世話をして放しているのではない。三百年あまりの昔、藩がこの岬に牧場を設けて以来、ほとんど人の手を加えず、自然に近い形で放され、繁殖を自然にまかせてきた馬の群れだ。日本に残る数少ない在来の馬の一つとして、国の天然記念物に選ばれている。県の最南端に位置するこの地は、平成の世の合併に加わらず、単独で歩みながら、人口を減らしてきた。県最南の岬の地であるこの地の数字には、固有の理由がある。串間市の数字は、三百年放牧の野生馬と単独の歩みという来歴が刻まれた街の記録だ。
宮崎県の最南端、県都の南南西約七十キロに位置し、東は日向灘・南は志布志湾に面する地に開ける市。人口は二〇〇〇年の 23,647 人から二〇二〇年の 16,822 人へと、減ってきた。この市は平成の合併を経ず、単独で歩んできたため、近年の人口の推移に合併由来の段差はない。私 (Atlas) がここで読みたいのは「県最南の市」 という記号ではなく、三百年放牧の野生馬と単独の歩みという来歴が、現在の人口や財政にどう翻訳されているか、という因果の筋道だ。
01 · いまの串間市を、数字で見る
二〇二〇年の国勢調査では人口 16,822 人、一万七千ほどまで縮んでいる。この市は平成の合併を経ず単独で歩んできたため、近年の人口の推移に合併由来の段差はない。二〇〇〇年の 23,647 人から、二〇〇五年の 22,118 人、二〇一〇年の 20,453 人、二〇一五年の 18,779 人、二〇二〇年の 16,822 人へと、二〇年で七千人近くが減ってきた。
中身を見ると、県最南の岬の市が年齢を大きく上げる姿が出る。六五歳以上の割合は二〇〇〇年の 29.8% から二〇一五年の 38.3%、二〇二〇年の 42.8% へと上がり、四割を大きく超えた。子育て世帯の割合は二〇二〇年で 16.3%、粗出生率は二〇二〇年で千人あたり 5.3。保育の待機児童は、二〇二四年・二〇二五年ともゼロ。財政力指数は二〇二三年度に 0.31 と、自前の税収では歳出の三割あまりしか賄えない水準にある。県最南の岬の地が、合併を経ず単独のまま人口を減らす姿が数字に出ている。なぜこの形なのかは、県最南の岬という位置と三百年放牧の野生馬と単独の歩みの来歴を遡らないと読めない。
出典: 総務省 国勢調査 / 総務省 地方財政状況調査 (財政力指数) / こども家庭庁 保育所等関連状況取りまとめ / 国土交通省 不動産情報ライブラリ
02 · 県最南の岬・三百年放牧の馬・丘陵の多い地・単独の歩み — 数字の背後にある来歴
この街の骨格は、県最南の岬という位置と、三百年放牧の馬、丘陵の多い地形、そして単独の歩みによって据えられている。始まりの層は、県最南の岬である。この地は、宮崎県の最南端にあって、東は日向灘・南は志布志湾に面し、南の端に海へ突き出た岬を抱える。県の中心からは遠く、市域は平地が少なく丘陵が多い。県最南の岬という位置が、この街の土台であった。
この岬に、三百年あまりの馬の群れが残った。江戸の世の元禄期、藩がこの岬に牧場を設け、以来ほとんど人の手を加えず、自然に近い形で馬を放してきた。繁殖を自然にまかせて代を重ねた馬の群れは、日本に残る数少ない在来の馬の一つとして、国の天然記念物に選ばれている。岬の草原と馬の群れは、この地の景色を据えてきた。市となった道のりも、この街を映す。この街は、昭和の半ばに周りの町村と一つになって市となったが、平成の世の合併には加わらず、単独で歩んできた。県最南の岬と、三百年放牧の馬、丘陵の多い地、そして単独の歩み ── この街の形は、県の最南端に突き出た岬が刻んだ、放牧と単独の来歴の上に立っている。
出典: 串間市/都井岬 (宮崎県の最南端、県都の南南西約70kmに位置し、東は日向灘・南は志布志湾に面す・岬一帯は国定公園 概説) / 串間市/御崎馬 (1697年に高鍋藩が都井岬に設けた藩営牧場に発し、以来300年あまり自然に近い周年放牧で飼われてきた日本在来馬・1953年に国の天然記念物 概説) / 串間市 (1954-11-3 南那珂郡 福島町+大束村/本城村/都井村/市木村が新設合併し発足・以後の平成の合併はせず単独存続 概説)
03 · 県最南の岬の地で、単独のまま人口を減らす
串間市の特徴は、三百年放牧の野生馬という来歴を抱えながら、合併を経ず単独で、人口を減らしている点にある。二〇〇〇年の 23,647 人から二〇二〇年の 16,822 人まで、二〇年で七千人近くが減った。県の中心から遠く、平地の少ないこの地でも、若い世代の多くがより大きな都市の方へ移って、街全体の年齢が大きく上がってきたと読める。六五歳以上の割合が二〇二〇年で 42.8% と四割を大きく超えたことは、その表れだ。
その一方で、保育の待機児童は二〇二四年・二〇二五年ともゼロで、子育て世帯の割合は二〇二〇年で 16.3%、粗出生率は二〇二〇年で千人あたり 5.3。財政力指数 0.31 は、自前の税収では歳出の三割あまりしか賄えない水準にある。県最南の岬の地は、いまは合併を経ず単独のまま、人口を減らしながら歩んでいる。二〇年で七千人近い人口減、四割を大きく超える高齢化、税収だけでは薄い財政。これらは別々の数字でありながら、県の中心から最も遠い岬という同じ位置の上で、若い世代の流出を通じて一つに絡まっている。一本の数字を抜き出して測れる街ではない。
04 · 県の最南端に突き出た岬が、三百年放牧の馬を抱えた地
串間がこの岬に抱えてきた固有の役割は、いくつも数えられる。一つは、宮崎県の最南端にあって、東は日向灘・南は志布志湾に面する、県最南の岬という来歴を持つ。もう一つが、江戸の世に藩が牧場を設けて以来、三百年あまりほとんど人の手を加えず自然に放してきた、三百年放牧の馬という性格を抱える。そして、県の中心から遠く、平地が少なく丘陵が多い、丘陵の多い地という顔を持つ。県の最南端という位置が、海へ突き出た岬も、その岬の放牧の馬も、ここへ抱え込んできた。
串間は、県の最南端に突き出た岬が、三百年放牧の馬を抱えた街だ。県最南の岬という位置から、三百年放牧の馬、丘陵の多い地、そして単独の歩みまで ── 「宮崎県の最南端の岬」 という地理が、人の手を加えぬ放牧の馬を残し、平地の少ない丘陵の暮らしを抱えて、街のかたちを据えてきた。宮崎県の最南端、東を日向灘・南を志布志湾に挟まれて突き出たこの岬に、人の手を加えぬ放牧の馬と単独の歩みが重なっている。
出典: 串間市/都井岬 (宮崎県の最南端、県都の南南西約70kmに位置し、東は日向灘・南は志布志湾に面す・岬一帯は国定公園 概説) / 串間市/御崎馬 (1697年に高鍋藩が都井岬に設けた藩営牧場に発し、以来300年あまり自然に近い周年放牧で飼われてきた日本在来馬・1953年に国の天然記念物 概説) / 串間市 (1954-11-3 南那珂郡 福島町+大束村/本城村/都井村/市木村が新設合併し発足・以後の平成の合併はせず単独存続 概説)
05 · Atlas メモ — 手を加えずに残すことを、三百年続けてきた岬
串間の数字を並べると、単独のまま減る人口・高齢化率 42.8%・子育て世帯の割合 16.3%・財政力 0.31 と、県の端の市が年齢を深める指標が並ぶ。私 (Atlas) は数字を勘定書のように一行ずつ読む癖があるが、ここで追いたいのは、この街が「三百年あまり、ほとんど人の手を加えずに馬を放してきた」 という、手を加えないことを続けてきた、という来歴だ。多くの土地が、放牧地を耕地や宅地に変えるなかで、この岬は牧の形を残し、自然に近い馬の群れを代々受け継いできた。何かを足すのではなく、手を加えずに残すことを選び続けた、という連鎖は、この街の数字には表れない厚みを示す。
もう一つ考えたいのは、この街が「県の最南端」 という、中心から最も遠い位置に置かれている、という点だ。県都からの遠さは、若い世代の流出と、平地の少なさと相まって、人口の減りと高齢化の深まりを早めてきた。県の端という位置が人口の流れに効いている――この見方は、一本の数字だけを睨んでいては掴めない。それを「県最南の市」 という記号として読み流すか、「県の最南端に突き出た岬が、三百年放牧の馬を抱えた街」 と見るかは、読む人の暮らし方で変わる。手を加えずに残してきたこの来歴を読む人がどう受けとるかは委ね、私 (Atlas) は事実を並べるにとどめて点はつけない。藩が牧を設けた三百年前、この岬には人の手を加えぬ馬が放たれていた。それから三百年を経たいま、同じ岬は二〇年で七千人近い人を手放している。
出典: 総務省 国勢調査 / 串間市/都井岬 (宮崎県の最南端、県都の南南西約70kmに位置し、東は日向灘・南は志布志湾に面す・岬一帯は国定公園 概説) / 串間市/御崎馬 (1697年に高鍋藩が都井岬に設けた藩営牧場に発し、以来300年あまり自然に近い周年放牧で飼われてきた日本在来馬・1953年に国の天然記念物 概説) / 串間市 (1954-11-3 南那珂郡 福島町+大束村/本城村/都井村/市木村が新設合併し発足・以後の平成の合併はせず単独存続 概説)
編集メモ: 数値・出典はすべて公的統計が由来です。 文体は Atlas の語り口に揃え、 AI (atlas-handcrafted-reverse-v1 (wave35-west 2026-06-04)) が文章の整え方を担当しています。 評価語・予測語 (「狙い目」「魅力的」 等) は意図的に載せていません。 改訂識別子: wave35w_




