かつてこの街の絹織物は、古い都の名高い織物の里と並び称された。北向きに光を取る、のこぎりの歯のような屋根の工場が、街のあちこちに建ち並んだ。織物のまちは、絹の時代が遠ざかると、人口を減らしてきた。桐生市の数字は、絹で栄えた来歴と、二〇〇棟を超えて残る工場群が刻まれた街の記録だ。
群馬県の東の端、渡良瀬川と山に挟まれて開ける市。人口は編入前の二〇〇〇年に旧桐生市が 115,434 人、新里村と黒保根村を編入した二〇〇五年に 128,037 人だったものが、二〇二〇年の 106,445 人へと減ってきた。私 (Atlas) がここで読みたいのは「織都」 という記号ではなく、絹織物・のこぎり屋根・編入合併という来歴が、現在の人口や財政にどう翻訳されているか、という因果の筋道だ。
01 · いまの桐生市を、数字で見る
直近の国勢調査で人口は約十万六千人 (二〇二〇年 106,445 人)。この市の人口には、編入合併による段差がある。桐生市は二〇〇五年に、新里村と黒保根村を編入して、いまの市域になった。編入前の二〇〇〇年は旧桐生市の 115,434 人だったものが、二村を加えた二〇〇五年には 128,037 人となり、そこから二〇一〇年の 121,704 人、二〇一五年の 114,714 人、二〇二〇年の 106,445 人へと、編入後は急な勾配で減ってきた。
中身を見ると、絹の時代が遠ざかった織物のまちが縮んでいく姿が出る。六五歳以上の割合は二〇〇〇年の 21.4% から二〇二〇年の 36.1% へと上がり、四割に近づいた。子育て世帯の割合は二〇二〇年で 16.7% と低く、保育の待機児童は二〇二四年・二〇二五年ともゼロ。財政力指数は二〇二三年度に 0.55 と、自前の税収で歳出の半分あまりを賄える、中小都市としては中位の水準にある。織物のまちが、編入後に人口を減らし高齢化を深めながら、財政は中位を保つ姿が数字に出ている。なぜこの形になったのかは、絹織物の来歴まで遡らないと見えてこない。
出典: 総務省 国勢調査 / 総務省 地方財政状況調査 (財政力指数) / こども家庭庁 保育所等関連状況取りまとめ / 国土交通省 不動産情報ライブラリ
02 · 絹織物・「西の西陣、東の桐生」・のこぎり屋根の工場 — 数字の背後にある来歴
桐生の骨格は、渡良瀬川と山に挟まれた地と、そこに育った絹織物によって据えられている。古い層は、絹である。この地の絹織物は、奈良の時代の記録にもさかのぼるとされ、長い歴史を持つ。江戸の時代になると、古い都の名高い織物の里から技を取り入れ、さらに西洋の技術も早くに導入して、桐生の絹織物は大きく発展した。「西の西陣、東の桐生」 と並び称され、昭和の初めまで、日本を代表する織物の産地の一つとして栄えた。糸を先に染めてから織る技法や、複雑な文様を織り出す技法など、いくつもの織りの技がこの地に伝わる。
そして近代、この街には独特の工場が建ち並んだ。のこぎりの歯のような形をした屋根を持つ工場である。この屋根は、北向きの面から光を取り込むことで、強すぎず安定した明かりを工場の中に保つ工夫で、織物や染めの工場に広く用いられた。明治から昭和の初めにかけて、絹糸の輸出が国の経済を支えた時代、桐生にはこののこぎり屋根の工場が数多く建てられ、いまも市内に二〇〇棟を超えて残るとされる。「西の西陣、東の桐生」 と呼ばれ、のこぎり屋根の工場が建ち並んだ。渡良瀬川と山に挟まれた谷で古くから絹を織ってきたことが、日本を代表する織物の産地と、その規模を映す工場群を、この地に生み落とした。
出典: 桐生織物記念館「桐生織」 (西の西陣東の桐生・絹織物 概説) / 桐生市「ノコギリ屋根工場」 (二〇〇棟超の織物工場群 概説)
03 · 織物のまちで、絹の時代が遠ざかったのち人口を減らす
桐生市の特徴は、日本を代表する絹織物の産地という来歴を抱えながら、絹の時代が遠ざかったのち、人口を減らし高齢化を深めている点にある。二村を加えた二〇〇五年の 128,037 人から二〇二〇年の 106,445 人まで、一五年で二万人あまりが減った。化学繊維の普及や、安価な輸入品との競合のなかで、絹織物を中心とした地場の産業が縮み、街を支えた足場が細っていったと読める。加えて、若い世代が東京などの都市へ移っていく流れも続いている。六五歳以上の割合が二〇二〇年で 36.1% と四割に近づくのも、その人口構成の表れだ。
その一方で、財政の体力は中位を保っている。財政力指数 0.55 は、自前の税収で歳出の半分あまりを賄える水準で、中小都市としては中位だ。織物に代わる新たな製造業や、地場の事業所が、税源に一定の厚みを与えていると読める。保育の待機児童も二〇二四年・二〇二五年ともゼロだ。織物のまちは、いまは絹の時代が遠ざかったのち人口を減らし高齢化を深めながら、財政は中位を保っている。減る人口、四割に近づく高齢化、中位の財政。絹の時代が遠ざかったこの織物のまちのいまは、どれか一つの数字だけを取り出しても掴めない。三つを束ねて、ようやく街の現在が見えてくる。
04 · 絹で栄えた来歴と、のこぎり屋根が刻まれて
桐生には、絹がもたらした顔がいくつも重なっている。一つは、古い都の名高い織物の里と並び称され「西の西陣、東の桐生」 と呼ばれた絹織物という来歴で、日本を代表する織物の産地という古層を持つ。もう一つが、北向きに光を取るのこぎり屋根の工場が二〇〇棟を超えて残るという街並みで、絹の時代の規模を今に伝える性格を残す。そして渡良瀬川と山に挟まれた谷という地形が、織物のまちという固有の構造を、この街に与えている。
古代の絹の産地から、「西の西陣、東の桐生」 と呼ばれた織物のまちへ、そして絹の時代が遠ざかったのちの街へ。渡良瀬川の谷で古くから絹を織ってきた土地の力が、織物の産地を呼び、のこぎり屋根の工場を建てさせた。谷あいの通りを歩けば、北向きに光を取る鋸歯の屋根が二〇〇棟を超えていまも連なり、機の音の絶えた建物の奥から、店や工房に使い直された新しい気配がのぞく ── 絹の最盛期の輪郭をそのまま残した街並みに、別の時代の暮らしが入り込んでいる。
出典: 桐生織物記念館「桐生織」 (西の西陣東の桐生・絹織物 概説) / 桐生市「ノコギリ屋根工場」 (二〇〇棟超の織物工場群 概説)
05 · Atlas メモ — 絹が遠ざかったあと、二〇〇棟の工場をどう使い直すか
桐生の数字を並べると、編入後の人口減・高齢化率 36.1%・子育て世帯の割合 16.7%・財政力 0.55 と、絹の時代が遠ざかった織物のまちの指標が並ぶ。ただ、編入の前後で数字を切り分けて読む癖で言えば、私 (Atlas) がまず断っておきたいのは、人口の段差が二〇〇五年の新里村・黒保根村の編入によるものだという事実だ。二〇〇〇年の 115,434 人は旧桐生市単独の数で、二村を加えた二〇〇五年の 128,037 人と単純につなげて読むことはできない。編入後の一五年で二万人あまり減った、という減少の傾きを読むのが筋になる。
もう一つ考えたいのは、この街が「絹織物」 という、かつて国の経済を支えた産業の盛衰を、街の規模で経験してきた点だ。「西の西陣、東の桐生」 と並び称された栄えは、化学繊維の普及や輸入品との競合のなかで遠ざかった。一つの産業に深く根ざした街が、その産業の縮みとともに人口を減らすのは、各地の地場産業都市に観察される筋道だ。だが桐生には、その時代の証として、のこぎり屋根の工場が二〇〇棟を超えて残る。役割を終えた工場を、店や工房として使い直す動きもあるという。北向きに光を取る鋸歯の屋根が連なる谷あいの通りには、機の音の絶えた建物の奥から、別の時代の暮らしが入り込む気配がのぞく。盛んだった産業の建物を、街が次の用途へどうつないでいくか ── 桐生という街は、その問いがいまも露天で進んでいる現場そのものだ。
出典: 総務省 国勢調査 / 桐生織物記念館「桐生織」 (西の西陣東の桐生・絹織物 概説) / 桐生市「ノコギリ屋根工場」 (二〇〇棟超の織物工場群 概説)
編集メモ: 数値・出典はすべて公的統計が由来です。 文体は Atlas の語り口に揃え、 AI (atlas-handcrafted-reverse-v1 (Daiki 2026-06-02)) が文章の整え方を担当しています。 評価語・予測語 (「狙い目」「魅力的」 等) は意図的に載せていません。 改訂識別子: wave13_e



