この街には、伯耆の国の古代の役所が置かれた。江戸の世から続く商いの町には、白壁の土蔵が川沿いに並び、いまも約一〇〇棟が残る。そしてこの地は、遠く安房の国から移された大名が、その生涯を閉じた地でもあった。白壁の商都は、合併で市域を広げたのち、人口を減らしている。倉吉市の数字は、古代の府と白壁の土蔵群、移された大名という来歴が刻まれた街の記録だ。
鳥取県の中部、天神川の流域に開ける伯耆地方の中心都市。人口は二〇〇〇年の 49,711 人から、関金町を編入したのちの二〇〇五年に 52,592 人だったものが、二〇二〇年の 46,485 人へと減ってきた。私 (Atlas) がここで読みたいのは「白壁のまち」 という記号ではなく、伯耆国府・白壁の土蔵群・移された大名という来歴が、現在の人口や財政にどう翻訳されているか、という因果の筋道だ。
01 · いまの倉吉市を、数字で見る
直近の国勢調査で人口は約四万六千人 (二〇二〇年 46,485 人)。この市の人口には、編入合併による段差がある。倉吉市は二〇〇五年に、隣の関金町を編入して、いまの市域になった。編入前の二〇〇〇年は旧倉吉市の 49,711 人だったものが、関金町を加えた二〇〇五年には 52,592 人へと増えた。そこから二〇一〇年の 50,720 人、二〇一五年の 49,044 人、二〇二〇年の 46,485 人へと、編入後は急な勾配で減ってきた。
中身を見ると、山陰の中小都市が高齢化を深めていく姿が出る。六五歳以上の割合は二〇〇〇年の 23.4% から二〇二〇年の 34.5% へと上がり、三割を超えた。子育て世帯の割合は二〇二〇年で 21.0%、保育の待機児童は二〇二四年・二〇二五年ともゼロ。財政力指数は二〇二三年度に 0.43 と、自前の税収では歳出の四割ほどしか賄えず、交付税への依存が大きい。白壁の商都が、編入後に人口を減らし高齢化を深めながら、待機児童はゼロを保つ姿が数字に出ている。なぜこの形なのかは、古代の府と土蔵群の来歴を遡らないと読めない。
出典: 総務省 国勢調査 / 総務省 地方財政状況調査 (財政力指数) / こども家庭庁 保育所等関連状況取りまとめ / 国土交通省 不動産情報ライブラリ
02 · 伯耆国府・白壁の土蔵群・移された大名 — 数字の背後にある来歴
倉吉の骨格は、伯耆の国の古代からの中心という地と、商いの町として栄えた来歴によって据えられている。最も古い層は、古代の府である。律令の時代、伯耆の国の役所である国府や、国分寺・国分尼寺が、この地の一帯に置かれた。山陰の交通の要であったこの地は、古くから伯耆の中心であり続けた。
そして江戸の世から、この地は商いの町として栄えた。町を流れる玉川の沿いには、白壁に黒い焼き板を張った土蔵が建ち並び、石州の瓦をのせた町家とともに、商都の町並みを形づくった。この一帯では、染め分けた糸で文様を織り出す織物や、稲の穂から実をしごき落とす道具づくりなどの産業が栄え、商いを支えた。江戸の末から昭和の前期までの建物が約一〇〇棟も残るこの町並みは、後に国の重要な伝統的建造物群保存地区に選ばれた。一方でこの地は、もう一つの来歴を持つ。江戸の初め、遠く安房の国の大名であった人物が、名目の上では大きな石高で、実際にはわずかな扶持で、この地へ事実上の流罪のように移された。彼はこの地で生涯を閉じ、その死に殉じた家臣たちの墓が、いまもこの街の寺に残る。古代の府と白壁の土蔵群、そして移された大名 ── この街の形は、伯耆の中心という地理が抱えた来歴の上に立っている。
出典: 打吹玉川 (倉吉・白壁土蔵群=重要伝統的建造物群保存地区・倉吉絣/稲扱千刃 概説・文化遺産) / 倉吉市 (伯耆国府・里見忠義の倉吉藩/大岳院・1953 市制/2005 関金町編入 概説)
03 · 白壁の商都で、編入ののち人口を減らす
倉吉市の特徴は、伯耆の古代の府と白壁の土蔵群という来歴を抱えながら、関金町を編入したのち、人口を減らし高齢化を深めている点にある。関金町を加えた二〇〇五年の 52,592 人から二〇二〇年の 46,485 人まで、一五年で六千人あまりが減った。山陰の中部に位置するこの街では、若い世代が県の東西の大きな都市や、都市圏へ移っていく流れが続いていると読める。商いと、後の時代の製造業を基盤とする山陰の中心都市として、人口は減ってきた。六五歳以上の割合が二〇二〇年で 34.5% と三割を超えたのも、その人口構成の表れだ。
その一方で、保育の待機児童はゼロで推移している。減った人口に対して、保育の受け皿は保たれていると読める。財政力指数 0.43 は、自前の税収では歳出の四割ほどしか賄えない水準で、交付税への依存が大きい。商いと製造業、農業を基盤とする山陰の中心都市として、自前の税源には限りがあることを映している。白壁の商都は、いまは編入ののち人口を減らし高齢化を深めながら、待機児童はゼロを保ち、財政は交付税に支えられている。人口は減り、高齢化は三割を超え、財政の体力は弱め。とはいえ、白壁の土蔵が約一〇〇棟も残る商都という来歴を抜きに高齢化率だけを並べても、この街がどんな成り立ちで縮んでいるのかは見えてこない。数字は、商いの記憶とあわせて読みたい。
04 · 古代の府と白壁の土蔵群が、伯耆の中心に折り重なる
倉吉には、時代の違う来歴が一つの街に折り重なっている。一つは、律令の時代に伯耆の国の府や国分寺が置かれた地という来歴で、伯耆の中心という古層を持つ。もう一つが、玉川の沿いに白壁の土蔵が約一〇〇棟並び、後に国の重要な伝統的建造物群保存地区に選ばれた商都の町並みで、商いで栄えた歴史を残す。そして遠く安房の国から移された大名が生涯を閉じた地という、思わぬ来歴を持つ。
律令の世に伯耆の国の府が置かれた古層の上に、玉川沿いの白壁の土蔵が並ぶ商都の町並みが重なり、さらに遠く安房から移された大名が生涯を閉じた地という思わぬ記憶が加わった。天神川の流域が山陰の交通の要であったことが、これらをこの一帯に集めている。伯耆の中心という位置に折り重なった古代の府と白壁の土蔵群 ── 倉吉を読むなら、まずこの重なりから入るのがよい。
出典: 打吹玉川 (倉吉・白壁土蔵群=重要伝統的建造物群保存地区・倉吉絣/稲扱千刃 概説・文化遺産) / 倉吉市 (伯耆国府・里見忠義の倉吉藩/大岳院・1953 市制/2005 関金町編入 概説)
05 · Atlas メモ — 白壁の土蔵が、次に守るもの
倉吉の数字を並べると、編入後の人口減・高齢化率 34.5%・子育て世帯の割合 21.0%・財政力 0.43 と、山陰の中小都市の指標が並ぶ。だが数字の不連続をまず疑ってかかる私 (Atlas) の目には、人口の段差が二〇〇五年の関金町の編入によるものだ、という事実がまず引っかかる。二〇〇〇年の 49,711 人は旧倉吉市単独の数で、関金町を加えた二〇〇五年の 52,592 人と単純につなげて読むことはできない。編入後の一五年で六千人あまり減った、という減少の傾きを読むのが筋になる。
もう一つ考えたいのは、この街が「商いの町」 として栄えた点だ。城下町でも宿場町でもなく、商いを中心に栄えたこの街には、白壁の土蔵が約一〇〇棟も残る。土蔵は、商人が財や品をしまうために建てた、商いの繁栄そのものの記録でもある。役割を終えた土蔵を、店や宿として使い直す動きもあるという。盛んだった商いの建物を、街がどう次の用途へつないでいくか ── 倉吉の白壁の町並みは、その一つの現場でもある。あわせて、遠い国から移された大名が生涯を閉じた地という来歴も、この街が古くから人やものの行き交う交通の要であったことを、別の角度から物語る。城下町でも宿場町でもなく、商いを中心に栄えたこの街には、商人が財をしまうために建てた白壁の土蔵が約一〇〇棟も残る。役割を終えた土蔵を店や宿へ使い直す動きもあるという。盛んだった商いの建物を街がどう次の用途へつないでいくか ── 倉吉の白壁の町並みは、その現場でもある。数字の不連続をまず疑う私の目で並べられるのは、関金町の編入による段差を断ったうえでのこの傾きまでだ。では、商いの繁栄そのものの記録として建った約一〇〇棟の土蔵は、人口が編入後に六千人あまり細ったこの街で、これから何を入れる器になるのだろう。財や品を守るために積まれた白壁が、次に何を守るのか ── その答えは、まだ書かれていない。
出典: 総務省 国勢調査 / 打吹玉川 (倉吉・白壁土蔵群=重要伝統的建造物群保存地区・倉吉絣/稲扱千刃 概説・文化遺産) / 倉吉市 (伯耆国府・里見忠義の倉吉藩/大岳院・1953 市制/2005 関金町編入 概説)
編集メモ: 数値・出典はすべて公的統計が由来です。 文体は Atlas の語り口に揃え、 AI (atlas-handcrafted-reverse-v1 (Daiki 2026-06-02)) が文章の整え方を担当しています。 評価語・予測語 (「狙い目」「魅力的」 等) は意図的に載せていません。 改訂識別子: wave14_1


